ただ足を放り出していく。それを人がやるから、前進という。

近所にマンションが出来た。

工事していた時は付近に囲いがされ、作業をする人が集まり、むき出しの鉄骨が力強い姿を見せていた。どんな建物になるかもわからず、わくわくする特別な空気を出していたが、出来たらまぁ当たり前だが普通のマンションで、すぐに周囲の住宅街に馴染み、特に何でもなくなってしまった。

作る、作られて行くということが特別で、作られたものには輝かしい価値がない(こともある)

シニカルな言い方になってしまうが、手料理とか、ファンアートとかもそうかもしれない。クオリティだけではなく、それよりも作ってくれたこと、作るために注力していたことに意味がある場合もある。これはクオリティが低いと言っているのではなくて、クオリティがはたから見て低いように見えても、その事が受け取りての気分を害すことはないという点を紐解けば、それは作る・作られるというステップこそが重要だということになる。見方を変えれば、出来合いのものを買ってきたよとか、AIに出力させたよという流れで同じものを受け取ったとしたら嬉しくないだろうという時、その差は作り手の文脈である。

千羽鶴は実際に被災地に送ってもちょっと困るという話を聞いたことがある。これについて実際がどうかは議論しないが、少なくとも祈りは否定すべきではないし、つまり千羽鶴を折ることを否定することは無いだろう。

過程と、その過程を進ませようとする意志があること、つまりは人がしているということに意味がある。そこにシーズがある。その上、AIが出来ないことは消費と暇つぶしなのは以前書いた通りなのだけれど、僕たちに有り余る時間をどうにかしなくてはいけない。ここにニーズがある。そこをウロボロスのように飲み込んでいくことが人の営みかもしれないということは以前も書いた。

そういえばピラミッドは公共工事だったという。生者である民を救うために、作るという仕事を与えることが目的で、作られたものは墓という死者のためのなのだ。結果的に成果物は巨大であるというシンプルな理由で観光地を為し現在も生きている人々に役立っているという点が特殊で、これはこれ、だからこそ見に行ってみたくはある。

ピラミッドも、出来上がったピラミッドが人々の生活を救っているのではなくて、ピラミッドを作るという行為が人々の生活を救っている。僕が仕事で行っているビジネスも、その成果物が直接に家族の生活を支えてはいない。ただ、僕が働いているという事実が、家族の生活を支えている。

僕たちのやることの多くは、成果物だけが直接にフィードバックするわけでない。でもそれが、行為の意味を成していない訳ではない。もちろん、だからと言って成果物にこだわらないという姿勢は良くないし、ピラミッドの例の通り出来上がったものが新しい意味を成すことを忘れてはいけない。そもそも、冒頭のマンションだって、僕に関係がないだけで立派に街の一部を成している。

ただ、昨今は成果主義という言葉が跋扈しているけれども、成果物に縛られ過ぎないというのも、冷静な判断だと思う。目的地に縛られ過ぎず、ペースに縛られ過ぎず、ただ足を放り出していくことをそれでも前進と呼べるような社会であってもいいのではないか。だってそれを、人がやっているのだから。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。