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存在しない"戦場"たち

話題の新刊「存在しない女たち」を読んだ。それは確かに「存在しない女たち」の物語であったが、同時にそこには、「存在しない戦場たち」の物語もあった。私たちは、来るべき未来のため、架空の戦場から脱するため、(部分的には)正しくジェンダーからexitする必要がある。

本書の特徴

なるほど評判の事はある、気合の入った一冊だ。現代社会において如何に女性が「考慮に入れられていないか」を念入りにデータとして持ってきている。読むと驚く事だらけだ。如何に「客観的」とされる視座が、本人たちの気付けていない段階で男性的な視座であるかを思い知らされる。本エントリでも後に触れる事になるし、作者自身の活動にも直結している、イングランド銀行の紙幣に使用される肖像画が男性中心であったケースをザックリと紹介しておく。

イングランド銀行は「客観的に」歴史的な貢献が測れる(つまり、文献から貢献が測ることが出来る)事を使用する肖像画人物の条件にしていると自称している。だが、歴史を考えれば分かる事だが古き英国において女性の貢献が分権や肖像に残っている事は相対的に少ないので、結果的に「客観的」な判断方法はモロに封建的な男性中心史観に胡坐をかく事になっている。

こうした、当人たちの気づけていない「男性中心主義」は現代に深く残っており、男性が女性より優遇されているというより、そもそも女性は「存在しない」扱いを受けており、これが社会へのマイナス効果を生み出している…というのが本書で語られることのコアだ。もちろん本書は、こうした"ファクト"に気付いていく事が、つまりマイナス効果を減らしていく事が、将来的にはプラスの効果を生み出す、「気づき」で「プラス」の話だとしている。

ちなみに、ここで”ファクト”という表現に強調を入れているのは、これが翻訳の癖である事を示しておきたいからだ。率直に言ってこの本はかなり語気が荒く、そこに加えて翻訳も輪をかけて荒くしており、相当に喧嘩腰な印象がある(それが翻訳者の癖なのか、編集の癖なのかは知らない)。本書の原題は"Invisible Women -Exposing Data Bias in a World Designed for Men-"であり、またこの「Men」については、本書の中で「Menは、人類という意味でありながら、男性の意でもある事」を散々引用している通り、副題には「"人類"のためにデザインされた世界と思いきや、”男性”のためにデザインされる世界」のデータバイアスを探る、という意味合いを含んでいる。日本語訳ではこうした意味合いをかなりバッサリとカットし「男性優位の世界に潜む見せかけのファクトを暴く」と随分と語気を強めている。かなり癖が強くなっている事はこれから読む方にはぜひ理解しておいていただきたい(知らずに読むと相当疲れるというのが正直な感想だ)

本書の留意点

本書を読むような人は…つまりこうしたいわゆるジェンダーの問題に意識を持っている人は、当然に議論に活かす事を意図している。しかしこの本を少なくとも日本での議論に用いるには留意すべき点は多い。

一つには、本書は欧州を舞台として「女性が活躍する事が当たり前に求められる社会でありながら、社会での評価やルール設定にバイアスがかかっているという問題」、それは言うならば「あるゲームルールに対してジャッジがクソである事」をテーマに書かれているという事だ。この「ゲームルール」は日本のものではない。言い方は荒くなり申し訳ないが、「お嫁さんになるという夢もいいよね」なんて言葉が通用する日本でそのまま使っていい論調ではない。もちろん日本でも女性の進出は求められているものであるが、その「進出して当たり前」の度合いは大きく異なる(それこそが西洋基準による男女平等ランキングで日本の評価を押し下げている訳であるが)。

なお、話は逸れるが、日本での男女平等社会の議論においてよくTwitter論壇に言われる「では(お嫁になりたい女性を守るし、女性が社会において活躍する事を推していくという事は)男もヒモになりたいと言う事を認める事が男女平等」というような意見や、それらに賛成派反対派問わずまじめに応対して炎上を繰り返している事自体が、この本とはマッチしないし、またそもそももはや「お嫁もヒモも許されない」世界になりつつあるし、社会への参加・貢献が求められるのは日本でも同様だ※。

※社会への参加・貢献については過去に触れているので参考にしてほしい。

実際として「本人は幸せなお嫁さん」や「ヒモにあこがれる男性」を間違っているとまで言い切る根拠を私自身は持ち合わせていないが、この本が扱う”ファクト”と同等に日本の話をしていいかは不確実性が残る。個人的にはお勧めしない。

※そもそも、「根拠を持ち合わせていない」どころか、こうした社会参加・貢献を前提とした検討が正しいのかも本質的には議論があろうと私は思っているので気になる方は下記エントリを参考にしていただきたい。ただこれは本書の議論とは関係が無い。

存在しない”戦場”

ところで、本書で指摘している事項は、歴史によって積み上げられたバイアスによって、現代の「客観」は大きく歪められているという事を丁寧なデータ収集によって暴いている訳だが、それを以て現在生きている男性の特権性を全て即座に否定して反省と贖罪(としての活動への寄与)を求めていくというのは、流石に無理があるのではないかと思う、と言うのが本書への飾らぬ感想だ。

途方もない歴史に積み上げられ、教育の初期段階から組み込まれているものに、気付けない事自体は仕方がないだろう。生まれた時から目覚めているのでない限り、ただ生きている中に女性へのバイアスが生まれる事自体を避ける事は難しいだろう。また、そうして続いてきた人間の営みの中で生まれてきたもの、あるいはそうした視点を持つ男性を「女性を軽視している」として破棄する事は(少なくとも)すぐには無理だろう。

途方もない歴史に勝る、懇切丁寧な啓蒙と更新をしていかなければいけない。これは長い旅だ。長い事を覚悟すべきである。

本書はそうした啓蒙として、バイアスを明るみにしている事自体は成功している。だが、そこから先の著者キャロライン・クリアド=ベレスのやり方は最適だとは感じない。

冒頭でも紹介した紙幣の肖像について、ベレスは女性の紙幣登用をキャンペーンで提案、ジェイン・オースティンを使用するよう署名活動を行い、これに成功する。だが、(たまたまエリザベス女王という肖像がある事で登場回数に関して女性が不利な事はない英国は別として)おそらくこうしたやり方は将来的に「男女どちらの方が登用回数が多いか」「より高額な紙幣に使用されているのは男ではないか」といった確認とそこの平等性要求をもたらすだろう。事実としてベレスが作成した「Wemen's Room」は男女の登場回数の不均衡を暴くためのものだ。

そうなると解決策は、「全ての紙幣に対して、男女それぞれの肖像版を作る」事になるだろうか。…随分とコストのかかる事だ。印刷だけではない、読み取りのためのコストも2倍だし、払い出し機からの払い出し枚数にも偏りが無いようにしなければいけない。だが、このコストは社会的な正しさと将来のために当然に支払うべきコストなのだ…とベレスなら言うだろう。

しかしこれは、最適ではないと思う。そもそも紙幣の肖像を男女関係ないものにすればいいのだ。これなら1種で済み、余計なコストも発生しない。「男女関係ない者」とは…拘りは無いが、雌雄がある生物は問題があろうし、人造物は誰が作ったかが議論になりかねないので、雄株・雌株の無い植物とかで良いのではないか。

いずれ、ジェンダー上問題が起きている事は、必ずジェンダー上の平等性で解決しなければならないというのは誤りだろう

あるいは、ジェンダー上問題が起きている事は、ジェンダー以外での問題が起きている可能性がある事も認識しなければならない。本書でも「男性向けに作られているスマートフォンは大きすぎる」とベレスは言うが、これは流石に男性にとってもデカいわとツッコミを入れざるを得なかった。実際の所スペックを向上させると電力消費が大きくなり、電力消費が大きくなるとバッテリーを大きくする必要があり、バッテリーが大きくなれば(分厚くしても結局持ちにくいので)画面を大きくするというような、「ジェンダーに関係ないやむを得なさ」があるとも聞いた事がある。「女性に合わないものは、すべて男性に向けて作られている」というのは、恐らく全てに当てはまる事項ではない。

いずれ、ベレスが女性の苦しみと主張している分野・場所は、その全てがジェンダーにおける戦場ではない可能性がある。もちろんベレスはこの戦い一つ一つの勝利にこだわっているという訳では無いだろうが、シンボリックな戦いを行う事が啓蒙の為であるとは言いかねないだろうし、実際そうした活動をしている。だが、「問題であるならば速やかに解決する必要がある」という意識の強い社会で、こうした啓蒙がもたらす破壊には気を付けなければならない。私は先ほど

人間の営みの中で生まれてきたもの、あるいはそうした視点を持つ男性を「女性を軽視している」として破棄する事は(少なくとも)すぐには無理だろう。

と書いたが、ヨーロッパがナチスをアレルギーのように扱い、アマゾンのアプリロゴすら「ヒットラーのひげに似ている」という理由で変えられるこの世界では、「存在しなくなった男性」を作る事も、可能かもしれない。

加えて、そもそもベレスのように気づいている存在は別として、歴史によって無自覚に積み上げられた男性優位性に気づいておらず、その中でうまく生きる事を目指し実現できた女性もいよう。そうした女性まで全て反省と変革を望むのが「生きづらさへの対処」なのだろうか。この場合の「うまく生きる」事がベレスや社会の望む正しさではない事が、反省と変革を迫るだけの理由に足るのか、私は知らない。

こうした言い方は良くない事は百も承知だが、ベレスを啓蒙と称して戦いを展開する「活動家」という職業ではないようにしなければならない。理想に近づく事にこだわるべきで、「戦い」にこだわるべきではない。もちろん、長い旅の途中で理想が叶わないうえに戦いもない、という辛い人生を迫る事になっても、だ。あるいは、その辛さを払しょくするためだけに戦いを展開する事は身勝手であるともいえるかもしれない。

私たちは、性差を超えるために、時に性をexitして、性差の戦いから抜け出す必要がある。

女性が虐げられていたという啓蒙だけではなく、男性が反省すべきであるという啓蒙だけではなく、植物が描かれた紙幣を作るという自由の事も啓蒙しよう。もちろん実在する戦場に対しての反省と更新はセットだが、存在しない戦場からは抜け出すという更新も必要なのではないか。

※なお、本書で扱っているテーマの中には、もちろんこうした提言ではどうにもならないテーマも多い事は断っておかねばフェアではないだろう。VRのくだりなどはかなり興味深かった。主に第4部と第6部が素晴らしかったことはちゃんとここで触れておく。

存在しない"監視者"たち

こうした、私の「長い旅と覚悟し、戦場にこだわるな」という主張は、体よくガス抜きをしているだけと取られる可能性はあろう。腑抜けの、本当は弱者である事を自覚しながら有意なポジションを捨てたくない者の、愚かなポジショントークだと。

私は、RPGで言うならば、悪意無きスライムを狩る事に明け暮れて血濡れるより、どうすれば魔王城をなるべく犠牲無く攻略できるか考えるべきだ、と言っているつもりではあるのだけれど、まぁ批判は甘んじて受けよう。

ところで、本エントリーを書いていて頭から離れなかったものがある。

性からのexitという私の言い分は、いがみ合うのではなく新しい敵のために手を汲もうとするオジマンディアスの作戦のようだし、exitを志す事は全裸発光行男性ことDr.マンハッタンの思考のようでもある(彼は自分を「理性的である」と主張している。もっとも、「彼の目指す思考のよう」であるだけで、Dr.マンハッタンそのもののようではないのだが)。ベレスのように周到な調査を行い正義を実行しようとする様は主人公ロールシャッハを思い出しもした。とは言え、この3人いずれも割とろくでもなく、また「存在しない女たち」のテーマにマッチするものではない。

そもそもこの作品は"WATCHER"ではなく、”WATCHMEN"である。これだけで本エントリの流れからだと問題がありそうだが、加えてあらすじも極めてマッチョだ。以下はいわゆるネタバレを含むストーリー紹介なので気になる方は先に漫画を見るなり映画を見るなりしてから読む事をお勧めする。

1985年、ベトナム戦争のトラウマの癒えぬまま冷戦を続け、第3次世界大戦が現実化しつつあるアメリカで、一つの計画が「元ヒーロー」によって進行していく。この世界のヒーローは別に特殊能力があるわけでもないただの「凝った自警団」だが、その中で一人、己を信じる圧倒的な意識の高さから奇跡のような能力を見せヒーローとしても実業家としても成功している天才・オジマンディアスがいた(最終的に彼は銃弾を素手で捕まえる)。彼は、「地球外からの侵略者」という人類にとっての共通の敵を作る事で敵対する国家同士を結びつけるため、自ら巨大なエイリアンを創造し「エイリアンの侵略によりニューヨーク市民の半分が殺された」と偽装するという計画を進めていた。
一方、実験の事故によりこの世界で唯一の特殊能力を持つDr.マンハッタンは、この世界の科学技術を極めて発展させ時間をも超越する存在となっていたが、自らの存在が持つ暴力性(そして男性性)との折り合いを付ける事が出来ず、独り火星に逃げ出していた。が、結局悩みは晴れず、かつて恋人であったシルク・スペクターを火星に幽閉し人類の価値とは何かという壮大な議論を吹っ掛ける。その中で、シルク・スペクターの母はコメディアンという粗暴なヒーローにレイプされかけた事があったにも拘らずコメディアンを愛していた事、そしてその結果生まれたのが思い人シルク・スベクターである事を知り、Dr.マンハッタンは「人間の複雑さ」を知り地球へ帰還する。
最終的にオジマンディアスの計画は成功し、その計画の合理性を知るDr.マンハッタンはオジマンディアスの行為を告発しようとする主人公ロールシャッハを蒸発させる。しかし、「最後には私のしたことは正しかったんだよな?」と聞くオジマンディアスに対し「最後など存在しない」と言い残したDr.マンハッタンは、新たな可能性に向け生命を創造するために地球を去る。
そして、ロールシャッハはオジマンディアスの行為を調査していたメモを既に新聞社に郵送していた事が明らかになったところで、物語は終わる。

1987年の作品とは言え、噎せ返るようなマッチョイズムだ。オジマンディアスも、Dr.マンハッタンも、どうしようもなく男性の性を見せている(ちなみにオジマンディアスは映画版だと明らかにスティーブ・ジョブスがモデルになっている)。コメディアンがシルク・スペクターの母をレイプしようとしながら全く本編では問題とならない点もかなり眉を顰めたくなるだろう。

さて、この作品のテーマは、「Who watch the Watchmen?」だ。行き過ぎた正義を実行するオジマンディアスを監視できる者は誰か?世界の全てを見る事の出来るDr.マンハッタンがそれでも自身の想いに振り回される時に、彼を見張る事が出来るのは誰か?それは男性性に感化されたシルク・スペクターではないし、狂言回しにして未来を作ったロールシャッハでもない。

真の正義はないし、真の終わりはなく、監視者を監視する者はいない。ルールはなく、つまりは結局は「やったもの勝ち」だ(その結果負ける事があっても)。だから正義を振るえばいい、終わりを目指せばいい。そうして、正義のためと思うオジマンディアスのように、あるいは世界が分かったと言いながら己の心のためにしか動けないDr.マンハッタンのように、あるいは世界の欺瞞を暴き戦い続けると決めたロールシャッハのように、「男らしく」やればいい。…1987年のマッチョな息遣いだ。なお、Dr.マンハッタンに至っては次作でハッキリと「正義はトライ&エラーなのでやるだけやって転生してみよう」とか言い出すからたちが悪い。

それでも、「存在しない女たち」はどこかWATCHMENと読後感が似ていた。恐らくは冒頭留意事項で書いた通りに、本著の翻訳には特に「癖がある」からなのだけれど、この「癖」が如何に危険かを物語っていると思う。

性をexitする必要があるのは、まさしくこうした「癖」を監視するための対抗手段としても重要であるからだと思う。つまり、正義の様は多様である事自体が、正義を監視できる。それがWATCHMENに対する一つの回答では無いかと思うし、その答えこそが私に本書とWATCHMENをつなげたのではないだろうか。

最後に、改めて「正しさ」とは何かについてのエントリを載せておく。

結果的に、『「思ってたのと違う」未来へ。』マガジン第1部を総ざらいしつつ、新しいテーマを扱うことが出来た。マガジン第2部としていい書き出しだったと思う。なお、マガジンはこちら。



↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。