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未来への展望2022 ~身体性、物流、公共性~

12月頭、柚子を頂いた。会社の人からだ。どこかに自宅が実在し、その自宅の庭には柚子の木があり、その実がなった末、日ごろのお礼として会社にて僕に手渡しをされた。
僕はそれをマーマレードにした。柚子でマーマレードなんて初めて作った。キッチンに立ち、皮をむき、スプーンで白い苦い部分をこそぎ、皮をみじん切りにして一度湯がく。残る実は絞り、皮と砂糖とともに鍋でかき混ぜていく。案外手間は多く、手が疲れる。味は苦味が抑えられ、とてもおいしい。
今度はそれを秘密基地で出す。執事さんが慣れた手付きで先にマーマレードとジンをシェイクしてから、トニックでアップする。香りが良いカクテルが出来上がる。初めて来店したお客さんにふるまう事が出来た。

一連のやり取りが、どこもかしこもがリアルだ。ヒト、モノ、カラダ、つながり。

バーチャルとリアル

秘密基地に限らず、アキバというテクノロジーの最先端にいながら、アキバ文化の店(コンセプトカフェとか、アイドルライブ文化とか)はある種の終わりを迎えようとしている事を強く自覚している。自分自身の生活の中でも、YoutuberやVtuberの配信を見たり、VRChatの世界を体験したりしてそう思う。対面で人と話すということに関して、バーチャルで出来ない事はもうなくなりつつある。推しと向き合うにしても、インターネットやVRでの方が飲み屋やライブハウスなんかよっぽどいい。配信は双方向であり、コンタクトは取れるし(むしろ横の人の事や混雑を気にする必要はないし)、バーチャルはなりたい自分で人に会えるし、リアルへの魅力は減じてきている。快適だ。テクノロジーは進み、アキバ文化として発展してきたコンセプトカフェ・バーやアイドル文化の「会える事」は大部分がカバーされてきてしまった。

もちろん、ライブにはその場の熱気とか、爆音とか、匂いとか、握手だとか、手渡しされるチェキだとか、体験としての特殊性はまだリアルに分がある。だがこれも時間の問題だとも思うし、あるいはそもそも別のやり方で既に負け始めていると思う。例えばVRchatのクラブ…これは内装工事不要でルームオーナーの腕だけでいくらでも派手になりすごい演出ができるクラブだ。既にスタジアムにあるような大画面ビジョン付きのクラブルームがある…こんなものに現実のクラブの内装が追いつける訳がないのだ。要は「再現できないリアル」があろうと、「バーチャルにしかできない事」があれば置換可能だし、そうして導線としてそういうバーチャルがリアルより先に次世代に浸透すれば(例えば「18歳になってクラブに行けるようになる前にバーチャルなクラブに行く若い子が増えれば」)、立場は変わるだろう。今年末のサンリオのバーチャルライブは一つのポイントだったかもしれない。

あるいは、VRにどうしてもできない特殊な経験として再現しにくいものの一つは、味覚触覚嗅覚に訴えるもので、特にその最たるものとしては「美味しい」という経験だが、それも結局は物流の限界だけがまだリアルの強さを出しているだけだと思う。龍吟の料理がいつか冷凍と解凍で用意できるようになれば…いや、もちろんあそこまで繊細な料理がそうなる事はないのだけれど、起きてしまえば…もはやリアル店舗に意味は無い。

他方で、バーチャルを介するというシステムが、そのシステム自体がリアルである都合、バーチャルはまだ現時点では「身体的にバーチャルらしい事」を苦手としているというのも、2021末の段階では公平な評価であろう。草薙素子が見せてくれたような浮遊感のある空間は、3Dのトラッキングという現実の前で製作者側のインプットが難しいし、あくまで僕らは座っているという現実の前で受け取り手へのアウトプットが難しくなっている。バーチャルでも「地面に突っ立った二足歩行の人間」が最もやりやすいというのは、結局は私達が自分の体を捨てきれていないし、リアルがまだ私達を支配している事を示している。バーチャルの密度が薄く、私達の体がまだリアルな自分に紐付いている。

物流と科学が未発達で、私達がまだ自分を捨てきれていないので、(「ので」というより、「その点において」)バーチャルはまだリアルを追い越せない。会社に出社する文化が残っているから僕は社員さんにお菓子を渡せるし、そのおかげでチームコミュニケーションは上手く行っているし、結果柚子をもらえている。その柚子を美味しいカクテルにする腕を秘密基地は持っているけれど、それをお出しできるのはお店に来てくれたお客さんへだけだ。身体というリアリティと、物流における優位性が、今のバーチャルと戦える理由になっている。

混在する事

ただ、前章はあまりにも「個人」の話に寄っている。もちろん、消費は個人のものなのだけれど、個人の消費はそれだけでは広がりを持たない。インターネットのサジェストは近いものしか知れないし、所縁の無いものに振れえる機会が少ない。本来そうではない未来が来るはずだったのだけれど、情報と関係性が増え過ぎた結果、知らないものを偶然知る事は難しくなってしまった。リアルにおけるランダムな出会いには、その物理的な偶然性によっていまだ健在だ。

個の話ではなく、複数人にインタラクティブな事象は、「近い」というリアルな理由によって発生する。探していたものに近い所に陳列されている商品、行きたい店に近かったから発見される店、街で見かけたオシャレな恰好、カフェの近くでなされていた会話、飲み屋で隣で飲んでいた人…街がなぜ大事なのか、それは僕たちの関係を作るためには近づかなければならないという、(本来バーチャルとかインターネットで解決されるべき事が、ユーザーと情報が多すぎて解決出来ていない)「自分の想像外と出会う」ために必要な手法の実現が街というリアルの塊でしか確立できていないからだ。街に一人でいる事は出来ない、街で会いたい人とだけいる事は出来ない。公共性とは、混在するという事だ。それは、前章でさんざん書いた通りコンテンツを消費する際にはデメリットなのだけれど、そのデメリットの先にしかないものがある。個人を超えるという事を起こすシステムは、個人以外が存在する事で達成されていて、それは「あなたへのおすすめ」が個人を拡張していくスピードをはるかに上回っているはずなのだ。

繰り返しになってしまうけれど、在宅では僕は柚子をマーマレードにする事はなかったし、秘密基地をやっていなければそれを新しいお客さんにお出しする事も出来なかった。予想外は、自分一人でない事で起きる。街は、看板は、ショーウィンドーは、通り行く人は、人が一人でインターネットに向かっている時とは違うアクセスをその人に対して行うのだ。世間では在宅ワークがもてはやされているし、飲み屋に行くという文化はこの2年で確実に失われつつあるけれども、それでも、あるいは…この「それでも」を求める一部の人だけが街に繰り出すようになるのかもしれない。これは昔からスナックに対して言われている事ではある。

可能性の未来

章タイトルは、「未来に対しての可能性」という意味ではなく、「可能性にしか未来が無い」事を意味する。バーチャルとリアルにおける優位性は、身体性や物流の持つ可能性(あるいはその限界)、公共性の持つ可能性(あるいはその弊害)によって定義されるからだ。

社会全体としては、リアルの可能性がこれから広がる速度には疑問があろうし、バーチャルやインターネットの可能性がどうなるかの方が議論としては分かりやすいだろう。そしてそれは、いずれリアルが敗れる戦場だ。

しかしそれは、現時点での個々人の戦いが負けるという事を意味している訳ではない。リアルが負けるまでには時間があるし、今最新のバーチャルやインターネット側に付くことが勝利そのものにはまだならない。だから、僕個人としては、リアルの可能性においてまだ引き出せてない所を引き出していくという戦術もある事になる。身体性を上げ、五感に訴えられる事を増やし、多くの所に顔を出し、物を買い、配る。物理的に一人でいない事。それは、古臭い生き方だとは思う。今の若い子たちと真逆とすら言えるかもしれない。それでも、リアルサイドでの可能性を高める事とはそういう事になる。仮に時を経てもテクノロジーでは自分の体を捨てきれないのならば、リアルサイドの身体性の可能性にしか未来が無いのだから。負ける戦場で、自分だけの勝ちを拾うために…これはこのnoteでテーマにし続けていることかもしれない。未来は思ってもいないものが来るのだし。


↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。