呟きもしなかった事たちへ_総集編

※コンセプトは創刊号をご確認ください。ぼーっとする文章が続きます。バックナンバーはこちら索引もあります。

今月も、呟きもしなかった事たちへ。

の「呟きもしなかった事たちへ」について、文庫本の同人誌を作る運びとなった。色々考えたのだけれど、そんなに分厚くないボリュームにしたく、4万字程度で作ることにした。理由としては主に2つだ。1つは、旅行の時には宿でゆっくりするし長い移動もあるしと本を持っていくも、案外大して読めないという経験があるので、薄い文庫本が良いのかなと思ったこと。もう1つは、あまり多くすると内容が似通うページが増えるだろうなということ。日記なのだから当たり前だが、総集編として人に読ませるならくどくないようにしたい。

そうして選んだ総集編なので、その気になれば一気に読めるし、物理的な本とは別に公開しておこうという次第だ。本と違ってジャンプできる索引があるのも良い。
ちなみに、このあとWordに張り付けて見つけた誤字脱字類はまだこの段階では直っていない。


オープニング

ネットスーパーで誤配があった。日用品なので傷んだりはしないし、来なかったものも緊急性は高くないのであまり問題はない。一方で、誤ってうちに来てしまった商品については、勝手に使うのもな…と脇に置いていて、何となしに家の中で存在感を放っている。人の家の気配がそこにある。

その後スーパーからはすぐに連絡が来て、「届かなかった商品分は返金します」「間違って届いてしまった商品はお客様に処分をお願いいたします」とのことだった。

新品を捨てるのもしのびないものの、自分で買ったわけではないと何か違和感があるな…と変わらず脇に置いていたのだが、ある日観念してエイヤと使い始めた。使った事のないブランドのマウスウォッシュ、使った事のないサイズのサランラップだ。使ってみると、悪くない(そもそも、「悪いマウスウォッシュ」「悪いサイズ感のサランラップ」というものはあまり無い)が、何か違和感は消えない。

どこかに、「へぇ、使ったことなかったけどルックお風呂の洗剤いいじゃん。でもどこか勝手が違うな。」と僕に届くはずだった日用品を使いながら思ってる人が居るはずだ。生活を交換している。王様と乞食みたいなやつだ。「代わってみませんか」。平民同士なのだが。

しかし平民同士だろうと、生活の一部を交換するというのは凄いことだと思う。みりんや味噌など、使っている調味料を急に他の家と交換されたら発狂しそうだ。あるいは、お互いの家庭で夕飯を作って交換する(一緒には食べず、作り終わった瞬間に交換して、自宅で食べる)とか、ものすごい違和感がありそうだ。パートナーが作った夕飯同士を交換する隣人同士…ヤバいな。絶対ヤバい。口調も変わってしまう。

はじめに

この本は、「呟きもしなかった事たちへ」というNoteで連載している月例記事の総集編である。元来、Noteにおいて日記ではなく月例の記事にしていたのは2つ理由があった。1つは日記だと推敲しないこと、もう1つは日記になると過去記事が読まれないだろうから月例くらいにした方が良いということであった。しかし5年もやって60号を越えたとき、過去作を読んでもらえる期待は薄まったし、推敲に関しては結局読み返せばすべきところは見つかる。改めて推敲し・まとめた本を作っておくことは良いだろうと考えた次第である。

テーマでまとめようかとも思ったけれど、元来の思考が散り散りなものであったことを考え、掲載時系列順に並べていく。

2019年8月:カードの音

Suica、WAON、Edyといったメジャーなものだけでなく、最近は比較的小さなスーパーマーケットチェーンがオリジナルのIC決済カードを作っていたりする。そしてIC決済カードの音は似通わないように被らないようになっている(ピピッ、シャリーン、ワオン!など、全部違う)。おそらくは「どのポイントで払ったかの確認が出来る」ことを目的としているのだろうが、問題は既にまともな音が使われすぎていて後発組のカードでは変な音にならざるを得ない事だろう。近所のスーパーマーケットのオリジナルIC決済カードでは、

「デェン!」

という音がした。どう聞いてもエラー音だ。Windowsで鳴ったら即座に「キャンセル」を押すタイプのウィンドウが出る。しかもレジは複数ある。

「デェン!」「デェン!」「ありがとうございましたー」「デェン!」

心臓に悪いな、と思っていたのだが、ある日気が付くと音が小さくなっていた。やはり苦情もあったのだろうな、と思う。

2019年9月:声

僕がモノマネを得意とする会社の役員がいる。飲み会でやるとウケる。

モノマネ出来るぐらいには一緒に働いたし、今でも会議等で同席すると(芸の見直しも兼ねて)注目するのだが、どう聞いても最近声がしゃがれて来ている。だが同僚たちは気付かない。

モノマネをするほど観察している僕だけが気付いている体調変化なのか、僕自身が「モノマネしている自分」に役員のイメージを寄せているせいでズレてきているのか。役員の体調を思うと後者であって欲しいし、前者だとちょっと冗談が重くなりすぎた。いずれにせよモノマネに修正がいる。悩ましい。

2019年10月:クリームコロッケ

小麦とバター(と牛乳)に、パン粉をまぶして揚げたものなので、実質パンと同じようなものなのだが、美味い。いや待て、実際美味いパンなのではないか。美味いクロワッサンとクリームコロッケは同じ味がする気がする。

そう思って祝日に美味いクロワッサンを買ったのだが、全然味が違った。貧乏舌だ。

2019年11月:マカロン

会社では自分の席に用があって来た人に対して、お菓子を必ずあげるおじさんである。気軽に遊びに来て欲しいからだ。実際これ目当てで遊びに来るようになった人もいて成果は出ている。

さて、僕はブッセが好きで、それが理由でファミマのミニ和菓子アソート袋を買っている。このミニ和菓子アソート、あんのパイ包とか、ブッセとか、結構「和菓子」としてのキワを攻めてきて良い。先日遊びに来た後輩に「どれがいい?」とこの言って袋を差し出したら「あ、ブッセ良いですね」と取られてしまった。

めげずに「いいセンス」と誉めた。僕は打たれ強く、悲しくなんかない。

後輩はこれをよく思ったのか、あるいはヤバイと感じたのか、後日お礼にとちゃんとしたお菓子屋のミニブッセを買ってきた。美味しかったのだが、よく見ると商品説明欄に「ソフトマカロン」と書かれていた。

これは悪いセンス。

2019年11月:おいどん

平仮名としても、音としても、案外かわいいと思う。日常系女子ほのぼの4コマとかのキャラで一人称「おいどん」は、フラットにみればありな気がする。しかし、どうしても西郷隆盛のイメージがこれを打ち消す。

そもそも、九州男児は本当においどんとかごわすとか言うのか?にわかに信じられない。キャラ付け感しかないぞ。

2019年12月:ロボ

会社のシュレッダーは、粉砕した紙がいっぱいになると

クズガイッパイデス

と出る。すごく社員に対して辛辣だなと思う。まぁ満杯になっても袋を交換しないまま放置した社員をクズと言いたい気持ちは分かる。自分がシュレッダーならなおさらだろう。いっぱいはいないから安心してね、と思いながら袋を交換する。

そういえば、大学時代の生協のコピー機は、用紙がなくなると

ヨウシ、ホキュウシテクダサイ

と表示が出て、なんとなく「ようし!補給してください!すぐにまたコピーを再開しますよ!」というフレンドリーさを感じていた。

心を通わせていく。ロボと。

2020年1月:Windows10

起動時の背景写真が放っておいてもランダムで定期的に変わり、それに対して敢えてフィードバックをしたければ「気に入りました」「あまり好みではありません」と返す。不思議な儀式だな、と常々思う。

ある日急に苦手なものの写真が(それも大写しで)出てきたり、気に入った写真だということをちゃんとフィードバックしても容赦なく勝手に変わったり、がっかりする面もある。だがそれはそれ、繰り返していくと家のPC、嫁の職場のPC、自分の職場のPCで違う写真になり、それが会話のネタになったりするのは面白い。先日はかわいいカモメの写真で嬉しかった。

何かしら生活にポイントが増えている。だが望んだわけでも、嫌なわけでもない。豊かさ、とは違うだろうが、ではこれは一体。

2020年1月:トイレ

あまり女性には知られていない気がするが、男子トイレ(小便器)には

「人がいなくても水が流れることがあります」

というシールが貼ってあることがある。実際流れる。設備洗浄が目的だそうだ。無人の暗いトイレ(センサーでライトがつく)に入ろうとした途端暗がりからバシャーという音がして驚いたりする。

深夜のオフィスや商業施設で、暗いなかバシャバシャやっているんだろうなと想像すると、なんだか不思議だ。怖い感じはない。人がいなくなった世界でも機械だけが動いている…そういう感じだ。

国破れて山河あり、みたいなものだろうか。そういえば冒頭の注意書きもそういう趣があるな。

人がいなくても、水が流れることがあります。

2020年2月:ハンバーグ

ファミレスなら気にしないし、ちゃんと高い店に行くと味を選ばされたりはしないのだけれど、ミドルクラスで「お好みのソースでどうぞ」と言ってくるハンバーグ屋がある。実はこれがかなり苦手だ。挙句「ソース無し」が選べたりするともう駄目だ。肉はソース前提のうす味なのか?逆で、肉にしっかり味がついていて、ソースが案外あっさりしているのか?実はソース次第でハンバーグの種を変えているのか?(安すぎない店なのでその可能性もある)どういうコンセプトなのか、情報が無く何もわからない。

「ここのハンバーグ、味は薄いのでしょうか?」

と聞くのも失礼だし、聞いたところで答えは「ですので、お好みのソースでどうぞ」だろう。

ここには初めて来て、お好みはこれから決まるはずなんだ。それなのに何なのだろう、この状況は。

2020年2月:旅館の朝食

旅館の朝食は米が足りない、と常々思っていた。ご飯のあてが多すぎる。鮭、卵、漬物、何かの時雨煮、明太子、唐辛子味噌、ぐらいは当然のように出てくる。種類が多い。ご飯をおかわりしないと足りない。

鮭は大きく切ったり、明太子は玉子焼きに乗せて食べたり、そうやっておかずをガツンと消費して、それに対して少量のご飯を食べるのが正攻法なのは分かっている。ご飯がおいしい、のではなく、ご飯でおいしい、が正しい。白米は口内の調子・リズムを整えるためのもので、あくまでもおかずが主。白米を美味しく食べるためのあてという発想で置かれたおかず達ではない。それは理解している。

言われてみれば、高級なものは本来お米がなくても美味しいはずではないのか。例えば寿司なども高級になればなるほどシャリは軽くなっていく。少量のお米で楽しめる山海のものを味わうようになるのが正しい食事の在り方なのかもしれない。味が濃いなどと言っている場合ではない。

しかし、そうは言っても元気な旅行中の朝だ。おいしいおかずでご飯をモリモリ食べたくはないか。そのテンションだと必ずや白米は不足しないか。

2020年2月:角煮かけご飯

お弁当を作らない日は、会社そばの中華料理屋でランチを済ませることが多い。ここには日替わり定食もあるが、毎回飽きもせず「角煮かけご飯」を頼んでいる。しかしこのメニュー、実質日替わり丼だ。

どうも厨房を見ているに、この「豚角煮と野菜のあんかけ炒めのせご飯」と称した方がいい料理、注文者が少なく、1回毎に作っているようだ(日替わりの炒め物とか麻婆豆腐は複数人分いっぺんに作っている)。そのため、直前に作った炒め物の味付けに引っ張られて毎回味が変わる(下手するとお玉を変えてない可能性が高い)。火曜日は日替わりがレバニラなので醤油のような味が強い。木曜日は日替わりが油淋鶏なので、炒め物は麻婆豆腐が主になり、それにに引っ張られて豆板醤入りになりがちだ。あんの固さも違う。ブレにブレている。

それでも毎回うまい。しっかりうまい。どうなってるんだと思いながら毎回頼む。

2020年3月:すあま

スーパーで中学生くらいの女子が

「あ、すあま可愛い」

と言っていた。こういう感覚は大事にしていきたい。

2020年3月:影

キーボードが会社や家で全部違うので、相変わらず体に慣れてない。手の位置がずれる。

ところで僕はメールを打った際に内容確認をしてから最後に名前を打って送信するのだけれど、実はnojiという文字列は右手だけで打てる。しかしここで手の位置がズレると

びふ

と文字が出てくる(全部左に1個ずれている)。

野地に沿うように影の「びふ」がいて、たまに顔を出す。

2020年4月:ニンニク

神田に「カープ」というお好み焼き屋があって、好きでよく行くのだけど、実はずっと「ニンニクトッピング」があることに気づいていながら頼んだことがない。多分これがカープで頼んでいない唯一のメニューだ。

しかし、お好み焼きにニンニクと言われてもいまいちピンと来ない。ソース味には合いそうでもあるが、一方でそうだったらもっと世の中で流行っているはずだ。それでも、にんにくをゴロゴロ入れた焼きそばやお好み焼きというものをあまり聞かない(全く聞かないわけではないが、流行っている気配はない)。

安定した美味しさを求めているからこそその店に足繁く通っているので、敢えての冒険というものが出来ぬままでいる。意を決する時は来るのか。少なくともここに書くことで気運を高めていく。
(※本を出版した段階でもまだ頼めていない)

2020年4月:電球

一つずつ電球を持つ両の手を振ると、片方からだけサラサラと音がする。

電球が切れたのだ。風呂場のLED電球と、キッチンの白熱灯で、どちらも同じ時期に切れた。前回キッチンのほうを白熱灯にした理由が思い出せないが、こちらも今回LEDにした。風呂場の方のLED電球は確かに10年持った(確か引っ越してきてすぐ切れたのでLEDにした)ので、まぁまた10年持ってほしい。

切れた電球を持ち比べて思い出したので、両手を振ってみる。フィラメントが切れた白熱灯だけがサラサラ鳴る。中のフィラメントが電球を転がる音で、綺麗な音なのだけれど、LED電球からはこうした音がしない。

こういう、気にしていないうちに無くなった音は、他にもあるのだろう。

2020年4月:コーヒー

会社の自販機が「つめた~い」に切り替わってしまった。世の中全体の温かさがなくなりつつある(言い過ぎ)。

ホットコーヒーをダラダラと冷ましたい。冷めたコーヒーが好きで、つめたいコーヒーは何か嫌なのだ。ぬるいコーヒーが理想だ。

まず間違いなくこれは高校・大学時代に飲みに飲んだマックとミスドのコーヒーに由来している。どちらも当時はローストがやたら強くて、熱いうちは鉛筆のような匂いがした。アイスコーヒーで頼むと勉強中に氷が溶けて味が薄くなり、これも鉛筆の味がした。ホットコーヒーを冷ますと、鉛筆の匂いが消えて一番美味しい。そういう経験をし続けてしまった。悪食の癖で、品のない話だ。ともかく、作業や勉強の片手間に飲むコーヒーはぬるいという感覚がある。

もちろん今でも、まともな喫茶店に入ればホットコーヒーを熱いうちにいただくし、夏なら氷が溶ける前にアイスコーヒーを飲む。だが、ダラダラ仕事中に飲むのは、ホットコーヒーが冷めたものがいい。いいのだ。

ホットコーヒーを冷ましてください。決してアイスではなく。

2020年5月:エノキ

エノキを一袋いきなり使うときは、袋から出さずに袋ごと石づきを切った方が(石づきのごみが散らないので)良い。知っている。

知っているが、知らないと気づけないことだとも思う。事実いつの頃までかは定かではないが、昔は律義に袋から出してエノキを切って、石づき(とそこから散らばるゴミ)を片付けていた。何で知ったのだったか…こういう出所の忘れてしまった知識でも日常は彩られている。

2020年6月:プロの技

純粋なテクニックの話ではなく、しかし「プロはやるが一般人はあまりやらないこと」というものもあると思う。

例えば、コンロの上のしかし五徳でない部分に物を載せるということをプロはやる(というか、プロ用のコンロは五徳以外の部分にものが置けるようにしっかり設計されている)が、あまり一般家庭ではやらなかったのではないか。IHになってフラットなコンロになってからはやる人も増えたと聞くが、ガスコンロは五徳をよけたスペースがあまり広くないため、ガスコンロを使う母は未だにこうしたことをしないし、その母を見て育った私も当然やってこなかった。

しかしまぁ、やれるようになると驚くほど便利で、キッチンが広くなったような自由度がある。これがプロの技よ!啓蒙である。

2020年7月:口上

「Web会議に乗じてこちらが大人数になってしまい申し訳ありません」

新しい習慣に乗って新しい日本語が来たな!と思った。大人数で相手先に押しかけたり、少人数の来客を大人数で迎えたりするのは確かにあまりいいことではないという風習がかつてはあったが、そういうものが取り払われていくのを目の当たりにしたのだ。

2020年8月:ガングリオン

ガングリオンの跡が、突っ張る時がある。肩こりに連動している気がする。

小学生6年ぐらいの時に、右手首にガングリオンが出来た。徐々に大きくなり、最終的に高1くらいの時にちょっと突っ張る感じがしてきたので取った。嫁と知り合う前の話なので、嫁も知らない体の秘密である。「夫も知らない体の秘密」というと淫靡な感じがするのでやってみたが、元来のテーマと合わさってどうでもよさが目立った結果になったので忘れて欲しい。

さてガングリオンとは関節のそばに良性のゼリーが溜まる現象だ。余談だがこの「良性」というのも何だか笑ってしまう。「悪性」じゃないなら「良性」、随分と極端な二元論だ。ニュートラルな表現が無い結果、こんなゼリーに「良性」と言うのも何だか御大層な気がする。話を戻すと、ゼリーが溜まるだけなので注射器で吸えば治療としては終わる(吸われるとキュウと引っ張られるような感じがして、注射器の中にゼリーがにゅるにゅると入っていき面白い)。但し、ゼリーがたまる部分に袋みたいなのが出来てしまっているとまたそこにゼリーが溜まるので、抜本的な治療としてはこの袋をつぶす必要がある。僕は高1の時に一度ゼリーを吸い取ったものの、結局袋が残っていたせいでまたゼリーが溜まったため、この袋をつぶすことになった。神妙な顔をした医者が

「袋をつぶすんでちょっと痛いですよ。ゼリーも抜けた今なら袋が破裂しても問題ないですから。」

と言った後、急に手首をバシバシ叩いたり滅茶苦茶強く押してきたりしたのが思い出深い。施術ってこういうものなのか?まぁ確かにいちいち切開して袋つぶすよりは、外から叩いて袋がつぶれるならそれでいい気もするが、これは治療なのか?単に急に患者の手首をバシバシ叩いているだけだが、点数は何点取るのだろう?

だがまぁ、一応再発しなくなった。

手首が突っ張ると、医者にバシバシ叩かれた事を思い出す。

2020年8月:見間違い

野球の応援コメントで(僕はベイスターズファンだ)、「☆になれ!」とあったのを「女になれ!」と見間違えてしまい、焦った。急に口説かないで欲しい。

2020年9月:太った

30代後半だしまぁ仕方ないという話はおいておく。

それよりも、体を使った写真映りが良くなった。ガッツポーズやマッチョポーズのような、筋肉に力を入れている時の感じも昔より良い、気がする。写真だけではなく、何となく動きが「映える」ようになった。体の動き自体は(歳を取って)多分悪くなっているだろうに、不思議なものだ。プロレスもやはり最後はヘビー級、みたいな話とも同じなのかもしれない(ジュニアのハイフライヤーが華麗に動くのも魅力的だが、なんだかんだいって皆ヘビー級が躍動する方に傾倒していく)。

逆に言うと、バレエダンサーのような、絞っていった先にしかできない事をしているというのはやはりすごいのだろうな。削って削って、その先にある鋭利なもの。確かにバレエとかはそういう感じがする。

2020年10月:寿司屋

御茶ノ水に変な寿司屋があった。今はもうないが、新しい聖橋口改札(文庫版編集注:当時。24年開業の新しい改札ではない)横の細いビルにあったと言えば、思い出す人もいるかもしれない。

鰻の寝床のような店で、立ち食いカウンターしかなく、だがものは良さそうだった。では入ればよかったのだが、通りがかったタイミングではいつもオーラのある常連が入り口近くにいて、その人を押し退ける勇気が湧かず結局ついぞ入れなかった。

いつも常連がいたということは、美味かったのだろうか。惜しいことをした。いやしかし美味くて通っていた場合は、今度はなくなった時のショックも大きかったろうから、これぐらいの距離感でも良かったのかもしれない。

2020年10月:冷やし中華

今年はついぞ食べなかった。だからどうという気もしないが、こうして食べるものの種類が減っていくと気が付かぬ間に生活のレベルも落ちているかもしれないので気を付けないといけない。

しかし冷やし中華を食べたかなと思いを巡らせた際に、「この間バンバンジー食べたな」と思いが行ってしまった。ねぎ、キュウリ、蒸し鶏、ゴマダレ…麺無しのゴマダレ冷やし中華だ。もはやバンバンジーで良いのではないか?醤油とごま油と酢の方の冷やし中華は、そういう冷ややっこでも今度作ればよかろう…いや、これも先日干し豆腐の前菜で似た味付けのものを食べたな。干し豆腐の前菜、あれはほぼ麺だ。

…冷やし中華、食べる必要あるのか…?

2020年11月:ドライアイス

ネットスーパーで買い物したら、どういう訳か配達のお兄さんが冷凍食品を渡してくる際に一緒に保冷していたドライアイスをくれた。普段はそんなことはないので、予期せぬイベントだ。鍋に入れてシンクに置いて水を入れる。雲海が出来る。ふふふ。

2020年11月:そば・うどん

「そば・うどん」とだけ言うとき、「そば」は蕎麦粉を打った灰色のものが想像される。しかしお好み焼き屋においての「そば・うどん」や、「焼きそば・焼うどん」と言うときの「そば」は中華麺を指す。よくよく考えると、こうしたトラップをどこで皆覚えて対応できるようになったのだろうか。

「中華そば」が全ての元凶なのだろうが、どうしてあれを「そば」と言うに至ったのか。「中華麺」では駄目だったのか。「五目麺」という表現もあるし、問題なかったのではないかと思うが、何か「中華そば」が生き残る要素があったのだろう。考えるに、やはり「焼きそば」か。「中華麺」のままだと「焼き麺」になってしまい、これは流石になんだかよく分からないのはまぁ想像できる。こういう難しさがある中、「洋麺屋五右衛門」はうまいこと逃げたなとも思う。洋そば屋、欧州そば屋では五右衛門も何が言いたいか分からなかっただろう。

余談だが、山口に行くと「瓦そば」という「焼きそば」があって、これは中華麺ではなくいわゆる「茶そば」を熱した瓦の上で少し焼いてパリパリにして、牛肉や錦糸卵と一緒につけ汁で食べる変化球の「蕎麦」だ。混乱する。

2020年11月:キズパワーパッド

先日ボーっとしていて右手の指を切った。絆創膏をまきその日は何とかなった。すぐに血は止まったが、切り傷なので切り口の皮が少しめくれたままになっている。

キズパワーパッドを使えばこういうのも綺麗に早く治るのだろうか。そういえばキズパワーパッドを使ったことが無い。なにせ買うタイミングが無いのだ。普段怪我をしない人間が、怪我していないタイミングで怪我をした時のためにちょっといいモノを買う、というステップが必要なのだが、そんなことはあるだろうか?「キズパワーパッドって絆創膏より良いとかいう噂聞くけど、ほんとかなぁ~?今度怪我した時のために買ってみよっと!」とコスメみたいなテンションで買うことはないだろう(こういう気持ちで色々な買い物をすれば人生が楽しそうではある)。

多分、子供がいる家とかが買っているのだろう。

そうして、僕とキズパワーパッドは、存在は知っているが縁のない存在として、互いに街に存在している。チャイナ・ミエヴィルの「都市と都市」という小説にもあったけれども、こういう「存在は知っているし隣に存在するけれども、実態を全く知らない」もので街は溢れている。

2020年12月:近視

通学中の女子中学生がギターケースをしょっていた。ギターケースに黄色い日本列島のチャームが付いていて、これはなかなか渋いな…と思ったのだが、よく見たらキリンだった。

しかし案外キリンと日本列島は似ている。キリンの頭が大きいタイプだと結構似ている。

2020年12月:量と器、ふりかけ編

いつまで経ってもふりかけをパッケージ並にかける事が出来ない。「のりたま」とか、中央の米が見えなくなる量をふりかけているが、あんな事出来る気がしない。よしかけるぞと息巻いても気がつくとあの量の手前で止めている。 

個包装になっているふりかけも、あれは1回分の量じゃないだろうとずっと思っているし、だからお弁当には使わず、家で2回に分けて使っていた。

多分あれは、「ふりかけだけで飯が食える」状態なんだろう。味噌汁もおかずも一切ない状況でご飯を美味しく(もっと言うと、「味をつけて」)食べるためのもの。発想が「炒飯の素」とかに近いのではないか。

しかし、白米と(よりによって)ふりかけしかないということ、あるだろうか。多分無いし、そこで塩むすびやおじやで我慢せずふりかけご飯にしたい欲は、もっと無いだろうという気がする。なんらかの思い切りをもってふりかけと対峙する必要がありそうだ。

2020年12月:量と器、クノール編

実は数年前まで、クノールのカップスープを気付かずして結構薄く作っていた。パッケージの説明を見ずにお湯を入れて粉を溶いて作っていた際に、お湯を多く入れすぎていたという訳だ。

理由は簡単で、クノールのCMでカップになみなみと入ったスープを女優が飲んでいたからだ。自然、ああすればいいんだなとパッケージの説明書きを見ずに家にあるカップにお湯をしっかり注ぐと、180~250ccくらいになる。ある日パッケージの説明で「150cc程度のお湯を注」と書かれていて心底驚いたし、書かれた量で作ったらまた驚いた。こんなに少ないのか、そして味がこんなに濃くて美味いのか。

しかし、そこから思い返してみると、クノールのCMのあのカップは何なのだろう?1.5人前?家族と分けている(2人で3袋=1箱使い切る)のか?そんな豪胆なことをやってたのか。

2021年1月:牛肉

会社のそばの中華料理屋に、「牛かけごはん」「牛かけラーメン」というメニューがある。牛を、かける。…牛。正体としては牛肉と細切りにした筍の甜面醤炒めを乗せたものと言ったところだが、確かに今かるくGoogleで調べてもそれらしい料理名はなく、たいてい「牛とタケノコの甘みそ炒め」とかで出てくる。青椒肉絲みたいな、4文字のそれらしいしゃれた名前は無い。それにしても、「牛」。…もうちょっと何とかならないものかという気がする。

思い返せば「牛丼」においても、「牛」とだけ言うには玉ねぎと一緒に煮たりと随分と凝った料理だが、「牛」の一言である。牛、それだけで料理たらしめるもの。

だから「牛かけごはん」でいいのだ。麻婆豆腐丼を「豆腐かけごはん」と言うと急に貧乏くさくなるのとは違う。

2021年1月:麻婆

右を書いていて思ったが、「麻婆丼」と中華料理屋で記載があった際にマーボー豆腐を想像し、麻婆茄子や麻婆春雨が出てくる可能性を考慮していない我々、わきが甘すぎるのではないか。

「麻婆ラーメン」でラーメンの上に麻婆春雨が乗っていたらやや面白いなと思う。麺のようで違う2種の食感が混じり食べ応えも面白そうだ(美味しいかは分からない)。食べてみたいと店を検索したが流石になく、これは自分で作るしかなさそうだ。2021年やる事メモその1。

「麻婆春雨ラーメン」で店を検索した際は、食べログが「東京で人気のラーメンのお店 (麻婆春雨)」と言ってきた。…それは違くないか?

2021年2月:春菊天そば

久々に良い駅そば(立ち食いそば)に合えた。出汁がちょっと辛め、春菊天も揚げたてではないが油をまとった野草としてそこに味を足してくれて、駅そばらしいふわふわした食感の蕎麦でそれらをすする。七味が湿気てないのかちゃんと香りがして、かけると上品な感じで味が締まる。420円でこれは良い。

…と、こういうしゃらくさいグルメ評が昔はあまり好みでなかった。食事ってもっと直感的に「うめー、がつがつ」と食べているのが実態で、こういう評価は後付け感があるような気がしていた。しかし、年を取りがっつくことがなくなると、食事中に「うまいなこれ」と思っている感情と向き合う時間が長くなっていき、結局こういうことを考えてしまうことが最近分かってきた。

つまるところ、飯の美味いまずいをやたら書きたがるのは老いであるのではないか。

2021年4月号:スポンジ

食器用スポンジの替え時が分かっていない。

最近の食器用洗剤はしっかり除菌までしてくれるので、「菌が繁殖してそうなのですぐに交換」とならない。フライパンは焦げ付かず、スポンジはそもそも傷まない。僕が使っているのは魚の形をしていて片面が柔らかく片面が固いヤツだが、この固い面があるせいかスポンジがへたって来てもそれなりの張りを維持するし、もとより夫婦二人で多量に食器を使う訳でもないので、どうにもこうにも変えないまま2~3か月くらい経っていることがままある。どうももっと頻繁に、具体的にはひと月に1度くらい変えるべきらしいのだが、そんなことをしなくても実際困るわけではない。

正解が分かっていない。こういう「見えていない世間ずれ」、色々ありそうだよなと思う。

2021年4月:美人時計

という単語をTLで見かけた。そんなものもあったな!という素直な驚きが声に出た。

調べてみると2009年アプリリリースらしい。12年前。今でも法人・事業としては続いていて、美人時計で人気を得た人をインフルエンサーとして紹介する事業などもしているそうだ。僕自身は美人時計をインストールしたこともないし、美人時計由来のインフルエンサーを見たこkともない。

実態としてTwitterには相変わらず可愛い子の自撮りにいいねが押されまくる訳だけど、一方で「ビジュアル勝負で女性を全面的に推していき、以て美人というレーベルで出します!」と企業が言ったら批判も沸いてこよう昨今、苦戦してそうだなという気はする。社会もこの12年で随分変わった。

2021年4月:失われた時を求めて

先日、ランチで例の「牛かけラーメン」を食べていて、時が止まった。

メンマや青椒肉絲でよくある話だが、細切りタケノコにはたまに「先の柔らかい所を細く切った結果とても柔らかくふにゃふにゃした部分」がある。あれが子供の頃から好きで、亡き大叔母とよく行った思い出の中華料理屋では青椒肉絲をよく食べた。もちろんその部分だけが好きなわけではなく全部食べていたが、端の部分のふにゃふにゃが当たると嬉しかった。もう最後に行ったのも20年以上前の記憶である。その店ももうない。

牛かけラーメンの「牛」は以前書いた通り牛肉とタケノコの炒めなのだが、不意に「先の柔らかい所を細く切った結果とても柔らかくふにゃふにゃした部分」が口に入った。だがその時はすぐには思い出せず、「あれ、何だかこれ食べたことあるな」と一呼吸おいた後、唐突にあの思い出の中華料理屋「張大千賓館」の様子が頭の中にフラッシュバックした。軒先の砂利を踏む音、小上がりに上がる時に触れる木の手触り、大叔母が好んだ紹興酒に付いてきたザラメの味、鉄板から香る青椒肉絲の香り、よく分からない横書きの書道、ご主人の笑顔…何もかもがクリアに思い出された。記憶の洪水とはこういうことか、「失われた時を求めて」のマドレーヌはこういうことか!夢うつつで牛かけラーメンをすすっていたわけではないのだけれど、確かに牛かけラーメンを食べながら同時に高井戸にいたし、2021年と同時に1994年にもいた。一人であると同時に、大叔母や家族がいた。これか、これが「スワン家の方へ」か。

2021年6月:トマト

昨年は食べなかった冷やし中華を今年は食べた。それも5月に。

冷やし中華の袋麺は5月頃から売られていて、毎年「何だか早くないか?」と思っていたのだが、今年はそれが何か自分にヒットして手に取った。

だがこれは、冷やし中華そのものへの興味より、トマトを日常的に買うようになったことが大きい気がする。普段飲む酒がビールからハイボールやウーロンハイに変わった結果、冷やしトマトが食べやすくなったのだ。冷やしトマトはビールには合わない気がするが、ハイボールなら案外行ける。それでトマトをよく買うことになったのだが、そうすると具を追加で買わなくていいので、冷やし中華の袋めんの使いやすさが上がる。僕が手を取ったのは、そういうことなのではないか。

多分、こういう変なリンクが自炊食生活にはあるのだろう。他にも何かを変えた瞬間から買うようになったもの、ありそうだ。

2021年7月:鍋

麺をゆでる。

麺の説明書を見ると1束(1人前)で1~2リットルと書いてある。多い場合は2~3リットルなんてものも見る。まぁ落ち着け。要はあれか、毎回寸胴鍋を持ってこいという事か。

我が家でのやり方は、寸胴ではなく普通の鍋に水を張った程度なので2束で1~2リットルか。メーカー推奨より大分少ないが、正直問題はない。

思い返すと実家は昔寸胴でいちいちパスタをゆでていた。そしてその分、母はパスタをあまり作りたがらなかったように思う。面倒だったのだろうな。母はある時何かタガが外れて今の僕と同じように普通の鍋でゆでるようになったが、きっかけは何だったのか聞けずにいる。

2021年7月:麦茶

三国屋のレモン麦茶を人からおすそ分けいただき、美味しく飲んでいた。キンミヤ焼酎を割ると美味しいと言われやってみると確かにいい味だ。夏場に良い。自分でも追加で買った。

ところでこの麦茶パック、「水出し」と書いてある。レモンの成分がお湯だと飛んでしまうのかなと思い馬鹿正直に水出しにしていたのだが、先日沸かした湯を冷ますのを忘れてそのまま麦茶パックを放り込んでしまった。結果その方が味が濃いし、なによりレモンの香りも麦茶の香りも強くなってよかった。…あれ?

2021年8月:野菜

悔しい思いをしながら、230円のほうれん草を買った。当然だが高い。スーパーの品ぞろえが良くない上にタイミングの悪い時に入店したので、葉物がそれくらいしかなかった。

しかし食べてみると美味しい。高級なだけある。お浸しにしたが、キュッと音がなるほどのシャキシャキ感。実に満足した。

高いものはうまい…一般的な事実として知っている。あんまりに安いものも美味しくないのも、知っている。しかし野菜に関して言うと、旬だとか豊作だと多少安くてもそれなりに美味しいし、逆に悪天候の後などは高くても美味しくない時があるという経験もあって、それゆえにワングレード高い野菜を買えない。小市民だ。生活を向上させられない。

高い野菜をニコニコしながら買えるようになりたい。

2021年10月:サンドイッチ

近くのセブンイレブンがクーポンを配っていた。サンドイッチ50円引きのクーポンに「※ロールパン・ハンバーガー・ブリトー・常温のパンは対象外です」と書いてある。

…ホットドックは?

ホットドックをサンドイッチだと言うのは何か違う気がする。しかしサブウェイやドトールのミラノサンドという存在は限りなくホットドックとサンドイッチの境界を曖昧にしているし、セブンにもサブウェイに似たサンドイッチが売られている。どっちだ…?こちとらいい大人だ、実際に店舗でクーポンを出して試すのも気が引ける。違ってた時に阿呆だと思われそうだし。

セブンイレブンのHPで商品を見ると、「サンドイッチ・ロールパン」の欄にハンバーガー・ブリトー・ラップ・マフィンそしてホットドックも並んでいる。そのうえで「ロールパン・ハンバーガー・ブリトーは対象外」という事は、ラップ・ホットドック・マフィンは対象外ではないと考えられる。…ふむ、使えるようだ。セブンのホットドックはパリパリしてうまい。あれに使えるのだな。

こうしてネタにして値引き分ぐらいは遊んだので、結局クーポンは使わなかった。

2021年10月:健啖家

量を食べたいなと思う。正確には、やみくもに量が食べられるようになりたいのではなく、美味しいものをたくさん種類食べたいのだが、そうすると必然、量が食べられる必要が出てこよう。

モスバーガーに行った際、気になるバーガーが2つあって(文庫版編集注:この頃、とても気に入っていたVtuberの大浦るかこさんがモスバーガーでバーガーを2つ食べる話をしていた)、しかしそもそもモスがいいなと思った理由には熱々のポテトやフライドチキンに惹かれたからだった…そんなときに全部頼める、そういう健啖家になりたいという話だ。しかし実際はそうも食べられないし、ならばと2回に分けてモスに行く訳でもない。結局何かを逃している。

旅行でも滞在中に名物をどれも堪能したいが、案外そんなに食べられない。悔しい。

思い返せば世の中に飲み会があった頃、一次会で夕飯を食べた後二次会で焼きそばをつまむようなことを(自分だけでなく結構な人が)出来ていたのはなんだったのだろう。普段なら絶対にやらないだろうことだが、あれが酔いか。見方を変えれば酔えばまたそういうことも出来るのか…そんな気もする。バーガー2個とポテトとチキン…ビールが2缶くらいあればあれば確かに大丈夫だろう。

健啖家だった。悪い感じの。

2021年10月:台所

ずいぶん昔、S先輩の家で夕飯を頂いて、その後片付けを手伝った時の話。

「包丁洗った後、食器かごに入れっぱなしで大丈夫ですか?」
「うん。…うん?それ以外ある?」
「うちの母は拭いてすぐしまってたんで。そういう家もあるかな、と。」
「ああ。その方が良いの?」
「いや、知らないです。すみません。なんか、そういう文化圏だったんじゃないですかね。僕はずぼらなんでやらないんですが。」
「まあそういうのもあろうな。」

S先輩は僕のことをノリだけの阿呆だなくらいに思ってたんじゃないかとは今でも思うんだけど、この時は何故か、妙に落ち着いた距離感だった。台所に横並びに立つというのは、そういう事なのかもしれない。

2021年10月:うまかっちゃん

うまかっちゃんを久々に食べた。うまい。うまかっちゃんだから。

しかし、バリカタやハリガネ、果ては「粉落とし」まである博多ラーメンの世界で、こんなにもフワフワなフライ麺が九州でベストセラーであるというのは不思議なもので、これはかつて博多出身者に聞いてみたことがある。曰く、「うまかっちゃんは博多ラーメンではなくうまかっちゃんなので」「固い麺のインスタントはマルタイがやっているから、うまかっちゃんはあれでいい」。なるほどそういうものか。博多はうどんも柔らかいし、麺に対して幅があるのだろう。うまかっちゃんはうまかっちゃん、みんな違ってそれでいい。私と小鳥と鈴とうまかっちゃん。

と、思っていたら、うまかっちゃんが本気の新商品と称して細カタ麺を出していた。おいぃ?

2021年10月:吸血鬼のいる朝

金曜や土曜、週の疲れもあるしと深夜の配信なども見ずに寝ると、まぁ8時までには目が覚める。早いと6時台だ。二度寝も不可能ではないが、最近はどうせ筋トレもするしと起きあがる。(その代わり昼寝することがあるが、これは本筋とは関係がない)

筋トレを終えてシャワーを浴びると、ははぁ…まだ朝は早い。スーパーに買い出しに行く日なら開店と同時に行くということも可能だが、そうでない日もある。

昼から予定を入れていたりすると、この時間からガッツリゲームをやる感じでもない。シャワーも浴びて準備もできてしまっているし、こうなるともうそのまま家を出て、少し手前の駅で降りて1時間ほど歩いたりして時間を潰してみる事になる。先日銀座で昼から用があった際は淡路町から皇居沿いに歩いて時間を潰した。大変爽やかで良かったが、まぁ見事に僕と同じように中年以上の人達が休みの日の朝から走ったり歩いたりしていた。

ああ…なんと健康的で、なんと暇なんだろう!

脳ではなく体で、僕は彼らが何をしたいか分かる。近頃は、コンテンツの消費も体力を使うようになった。だから僕も家で読書や録り貯めた作品の観賞をせず、外に出て散歩でもと思ったのだ。つまりもう、出来ることはこれだけなのだ。そうして僕らは街を、まだろくに店も空いていない時間から、何も消費せずに徘徊している。朝目が覚めてしまうというそれだけの理由で!

ああ、年を取りたくないものだった。夜更かしをして昼に起きるのはきっと若者の特権なのだ。活動的な消費が行える若者達は眠るであろう時間を、年寄りは何のコミュニケーションも取らずに、ろくに消費活動もせずにただ徘徊している。日が高く明るくてもこれはゾンビの行為であり、あるいは恐れるものの多い吸血鬼の徘徊だろう。

あるいは僕は、この1年半そうしたことを忘れているだけで、また夜を楽しみ、朝を眠る事が出来るのだろうか。

2021年11月:お疲れ様

10月1日付で部下が出来た。しかしまだ世相的にも歓迎会が出来る状態でもなかったうえ、今年の10月はちょっとあり得ないくらい忙しい時期だったので、歓迎会は見送られた。

3週間ほどして、ちょっと余裕ができ、部下も僕もそれなりに早めに帰れそうだった。幸い金曜でもあったので、「ちょっと一杯やって帰りますか」と誘った。この誘い自体が2年ぶりで、はじめどう声掛けたらいいのか思い出せなかったが、無事ビール一杯だけ引っ掛けることにした(といいつつ2杯飲んだ)。

「お疲れ様~!」と言いながらジョッキをぶつけたが、実に良いものだった。秘密基地(文庫版編集注:著者の行っているイベントバーの名前)でも乾杯はしてるのだけど、会社の仕事明けにチームメンバーとの乾杯はまた違う良さがあった。歓迎会と違い、3週間も仕事して何となくお互いキャラが分かってきてからの飲み会だったので、パーソナルなところもかなり切り込めたと思う。良いチームアップだった。

会社の飲み会、良いものだな。「お疲れ様でした」。

2021年12月:柚子

柚子を会社の人からいただいた。「家で沢山なっちゃうので…」ああ、聞いたことあるやつだ。まぁ人にあげる時に気を使わせない用の常套句だよな、などと思いながらありがたくいただき、鍋のたれに使ったり、風呂に入れたりしてあっという間に使った。

そしてお礼を言ったら、その翌日すぐにまたいただいた。「本当に沢山なってるんですよ」。常套句じゃなくて本当に沢山なっているらしい。柚子ってそういえばそういうものだったかもしれない。

それはそうと、柚子をもらうということは、若いヤツだとは思われなくなったことだという気もする。

2021年12月:土産話

全国のうまいものがちょこちょこと買えるので、物産館にはよく行くが、そのくせ行っても色々あってあまり買わないことの方が多い。ちょっとは買うが、30分ちょっとも滞在した挙句に2・3点買う程度に収めてしまう。

買いたくないのではない、「それ、自作で試そう」になってしまうのだ。

例えば先日、「野沢菜を入れたなめたけ」が売っていた。なるほど美味そうだが、買うよりもまず自作してみたくなる。野沢菜以外でも出来そうだ。結局その日は「野沢菜入りなめたけ」は買わず、翌日スーパーでカブとエノキを買って、カブの葉とエノキでなめたけを作った。さらに後日は春菊を入れたなめたけも作った。どちらも美味しかったが、商品はおろか、アイディアに対してすら何もお金を払っていない。反省。

物産館では土産話ではなく、土産を買うべきだ。

2022年1月:砂糖

お菓子を作る時に、砂糖を入れる量にビビってはいけない。
すき焼きを作る時に、砂糖を入れる量にビビってはいけない。
みりん干しのたれを作る時に、砂糖を入れる量にビビってはいけない。
角煮を作る時に、砂糖を入れる量にビビってはいけない。
マーマレードを作る時に、砂糖を入れる量にビビってはいけない。

どれもよく言われる。多分、ビビってはいけないのではなくて、砂糖って本来何にでもドバドバ入れるものという事を認識すべきじゃないだろうか。

根拠はないが、ドバドバ入れるものという認識にならないのは、スティックシュガーとか角砂糖とかが小さすぎる事に由来しそうな気がする。コーヒーにはスティックシュガーを一本入れれば十分甘いという感覚が本来はレアケースで、例えばスタバのフラペチーノとかにはスティックシュガーを何本入れる必要あるのだろうか。コーラに角砂糖が何個分入っているか、お茶碗一杯のご飯を角砂糖にすると…といった不安をあおる表現があるけれど、根本的に単位が小さすぎるんじゃないか。ヴィトンのカバンを買おうと思ったらうまい棒を何本我慢するべきか、みたいな話をしているのではないか。

2022年2月:Quality of Life

以前、「食器用スポンジが2‐3か月持つ」とか書いていたが、前買っていたのがタイミング悪く変えず、安いのに変えたら1か月で持たなくなるようになった。ああそういうこと?

話は変わって、僕は髭剃りはT字の使い捨て剃刀を使っているのだけれど、これもまぁ使い終わりが分からない。昔よりモノが良くなっているし、シェービングジェルも良くなっているので、これもスポンジと同じで、駄目になったりしない。しかしまぁ勇気を出して新しいのにしてみるとちゃんといい具合に剃れるのよな。どうなってるんだ。

ちゃんといいモノを定期的に買おう。そういうリアルさ、大事だ。

2022年2月:コーヒー万事塞翁が馬

鬼そば屋の主人が、年越しそばを頼んだ際のサービスでコーヒーの粉をくれた。もともと家にコーヒードリップを置いた理由も、在宅勤務になってから彼がコーヒーをくれたからなのだけど、今や在宅勤務をしなくなって家でコーヒーを飲む機会がガッツリ減っている状況だ。

一瞬困ったが、こうなるといよいよ水筒を買って、自作コーヒーを会社に持って行くべき時なのだろう。それもありかとAmazonで水筒をポチる。人生で初めて自分で水筒を買った。生活が変わっていく。

水筒によって一番驚いたのは、コーヒーが冷めないことだ。僕は会社ではホットコーヒーが冷めたものを飲んでいたのだけれど、コーヒーが冷めなくなったので昼過ぎに水筒から一口飲むたびに驚いている(あっつ!)。生活が変わっていく。

程なくして、嫁から、最近は帰宅してもなんだか元気だねと言われた。思い返すと、コーヒーが冷めないので何時までもチビチビ飲んでいる結果、コーヒーを飲み終わるのが遅くなっている。つまり、カフェイン効果がより遅くまで持続している訳だ。ちょっとしたことで生活が変わっていく。

2022年3月:痩せた

痩せはしたのだ。この2年くらいでの増分は全て減った。そりゃこれだけ筋トレと運動をすればね、と本人としては何ら驚きも喜びも無いのだが、まぁ30代後半が酒を飲んでいても痩せられるということが分かったのは収穫だろう。

むしろ気になっているのは弊害の方で、いざという時に気合が入らない感じがある。もうひと頑張り、という気持ちを出すのに苦労する。ちょうど気持ち的にもきつい時期ではあったのだが、食べて元気を出す力が落ちている気がする。経験的に業務繁忙期は少し体重が増えるくらい食べている方が働けているということと照らし合わせても、やはり(いかにゆっくり目にしていようと)カロリー収支マイナス状態だと火事場の馬鹿力は出ないのだろう。余力が無いと緊急対応できないのは社会や法人に限らず自然人でも同じことだ。

過去に太った結果写真映えが良くなったと書いたのも、似たような話なのかもしれない。余力。

2022年3月:ひらがな

実はずっと「AIのべりすと」を「AI の べりすと」と捉えていて、「べりすと…すとはStoryかな。べり…?」とか思っていた。AI Novelistだったのか。

分かった今でも、Novelistはあまり使わない単語だろ(小説でもauthorを使う方が多くない?)と思うし、その使わない単語をひらがなで書かれたうえに、「AIの」と来るので、全く認識できていなかったことも仕方ないと思う。皆すぐに「のべりすと」と認識できていたのだろうか。今こうして打ってみても「延べリスト」かと思う。ひねもすのべりのべりすと、とか打つと古文っぽい。

全て、ひらがなが悪い気がする。

2022年4月:れんげ

スープをすくう「れんげ」、紐を通す穴が空いていることがたまにあるけど、紐通ってるの見たことないかもしれん。

2022年4月:粗大ごみ

近所に、2週に1回は粗大ごみがドカドカと出ているマンションがある。マンション自体はさほど大きくなく、そのマンションだけやたらに引っ越しの頻度が高いのかと始めは思っていたが、よく考えれば引っ越しだけなら必ずしも家具を捨てる必要はない訳で、かなぐり捨てる人が良く出ていないと計算が会わない、という印象だ。

どうしてこういうことが起こるのか。場所に何らかの力があるのか。そういえば、飲食店のテナントでも、どういう訳か良い立地にあっても連続でつぶれる場所があったりする。何か、何かがその土地にあるのだろう。

その何かが分からないまま、粗大ごみシールの貼られたソファーをよく目にする。ひっかかる。

2022年4月:脳トレ

いつもお願いしている美容師さんとは同年代なので髪をやってもらっている間もベラベラ喋っているのだけれど、ラジオの話から「平日午後のAMラジオがかかっている場所と言えば地元の文房具屋」と話が展開し、最終的に

「シャーペンの替え芯、文房具屋でしか見かけないキャンペーンやってましたよね?」

と美容師さんに言われて本当に雷に打たれた。確かに、テレビCMなどはやらないくせに、なぜかシャーペンの替え芯は謎のキャンペーンポップが文房具屋にだけあるのだ。社会人になってからほとんどシャープペンシルを使わないのもあるけれど、あれは本当に見なくなった。令和になってから一切脳内になかった概念だ、シャー芯のキャンペーン。

こういうのがシナプスを若返らせる、と信じたい。

2022年4月:ひじき

上白糖が切れたので買ったところ、裏面の「調理使用例」に「五目ひじき煮」と書いてあった。

「今日の料理は砂糖使うもの、なーんだ?」「うーん、角煮かなぁ」「正解は、五・目・ひ・じ・き、よ」は地方AMラジオの変なCMの世界だと思う(この後「地元に愛されてウン十年、乾物なら何たら物産」とナレーションが入る)。

もうちょっとなんていうか、他になかったのか?

2022年5月:染みわたる

トロピカーナのマルチビタミンという飲料をご存じだろうか。トロピカーナが作っているが、果汁が16%しかなく、ビタミンだけでなくクエン酸なども足していて、まぁともかくケミカルな味と匂いがする、ジュースではない「何らかの飲料」だ。平時に飲むとそのケミカルっぽさ、ビタミン特有の匂いに驚くばかりだが、二日酔いの時に飲むと妙においしく感じる。体が正直というか、必要なモノが美味しく感じるのだろう。染みわたるというヤツだ。

ポカリなども普段は甘すぎるように思うが、体調が悪い時は妙にうまい。先日ワクチンの副反応が出た日も、熱が出るより先にポカリが美味しくなって発熱を予知できたし、熱が下がるより先に味が普通になったのでもう熱が下がるなと予知できた。味は体に必要なことを教えてくれる。

ところで普段酒を美味しい美味しいと思っているが、「体に必要なこと」なのかは知らない。

2022年5月:マヨネーズ

マヨネーズのこと、分かってあげられてないな、と思う。嫌いなわけではないが、いる理由が分からない時がある。唐揚げとか、塩気も油分もコクもこれ以上足す必要があるのか…?というのが正直な感想だが、まぁつけて不味くなる訳でもないし、好きな人がいる分にはいいんだろうけど、分かってあげられてないな…という認識だ。

でもこれを「社内で一部層に人気もあるし、会議にいるからって出て行けとまでは思わないが、個人的には特に居なくても困らないひと」とか言うと、相当嫌っている風に聞こえるだろうし、実際嫁に「それは嫌いなんじゃない?」と言われた。

いや嫌いじゃないんですよ。

2022年5月:ギザ十

ふと気がつくと財布の中にギザ十があった。十円を使うときもギザじゃない十円で済ますなどして、何となく使わずにいた。人に何か払うときに「あ、ギザ十いる?」等とコミュニケーションが取れるし、なんか面白い。昔は訳も無く後生大事にして引き出しに入れたりしてたが、こうして財布に入れている方がどうでもいいことでゲーム感覚があっていいな、などと遊んでいた。

そしたらふと気がつくと財布の中にギザ十が2枚あった。いつの間にかお釣りで貰っていたらしい。「使わない」というゲームが難しくなる。別に後生大事にしたい訳ではないし、とっとと使いたいのだが、何かが後ろ髪を引く。

2022年6月:眠くなる成分

痛み止めや解熱剤に「眠くなる成分は入っておりません」と言われても、痛かったり熱があったりして疲れているところに、症状が緩和され少しリラックスできると、眠くなると思う。そういう眠気に身を任せた方が体も楽になると思う。しかし、そこで眠ってはいけないからこそ眠くなる成分は抜かれている。

眠くなる言い訳が無くなる分だけ辛いので、眠くなる成分は入っていていい。そういう言い訳を僕らに用意しておいてほしい。眠くなる成分入っているから仕方ないんだよね、と甘やかしてほしい。

2022年6月:反省猿

「反省だけなら猿でもできる」は、確か1990年代のCMだったはずだ。太郎・次郎という猿がいて、「反省!」と号令を受けると手を壁(あるいは台)に当ててうなだれる、いわゆる反省したポーズを取るという芸があって、それを元にしているネタだった。簡単に言うと流行ったギャグだ。

しかし今や、「反省だけなら猿でもできる」は言葉としてだけ残って、そして太郎・次郎を知らない若者相手にも使われる可能性がある。改めて思うと、反省している人に対して「反省だけなら猿でもできる」と言い放ったら大分パワハラっぽい。でも言う側の老人・中年どもはCMを覚えているからギャグっぽさがあって、パワハラとは思わないんだろうな。

時代のギャップってこういう風にできるんだろうか、などと思う。

2022年6月:カーテン

カーテンを取り替えた。カーテンを付ける際は毎回思うのだけれど、ロールカーテンをカーテンレールに取り付ける際の金具、こんなチャチくてもいいのか。カーテンレール自体も改めて見るとロールカーテンを支えられるのか不安になる華奢さだが、案外ロールカーテンは軽いし、カーテンレールも丈夫という事なんだろうけど、カーテンレールに入るような小さな金具を2個だけ仕込んで、それにホイとロールカーテンのマシン部分ごとぶら下げるのは、毎度毎度ちょっと勇気がいる。だが取り付けてしばらくするとそんなことは全く気にならなくなるのも事実で、実際自分が何におびえているのかは分からない。

ともあれカーテンを変えた。遮光性が高くなって夜部屋が暗くなった。以前はカーテンも割と明るめの色だったのもあり、月光や街路灯の光が柔らかく部屋に入ってくる感じがあったが、今はしっかり夜暗くなった。最近は早起きしがちだし夏になると明るくなりすぎるきらいがあったのでこれはこれで良い。

一方、実は「夜部屋がしっかり暗い」のは人生で初めてのことだ。実家にいた頃の自室は小さいルーバー窓があり、そのルーバー窓にはカーテンが無かった。結婚してからはずっと、先の通り少しだけ外の明るさが分かるような明るいカーテンの家だった。そんな訳で、夜しっかり暗い部屋に住むという事が無くて、東京に住んでいると夜は暗くないのだな、と生まれてこの方ずっと思っていた。

カーテンを変えただけで、果たしてちゃんと暗い夜が来た。夜は暗い。不惑になる前に気づけて良かった。

2022年7月:かき氷

いままでちゃんと、カフェのかき氷というものを食べた事が無かった。随分前から何だかジャンルとして先鋭化している事は聞いていたのだけれど、縁遠い存在で、「じゃぁ食べてみるか」となるだけの理由もなかなかなかった。酒が飲めるわけではない、それだけでダラダラできるわけではない、氷を食べたいという気分にならない、そもそもカフェ巡りもしない(カフェ行くくらいなら家にいるか飲み屋に行くかしてしまうし、街中での時間つぶしも別の事をしてしまう)、要はソースなだけな気がする、なんとなく終わった後受け皿がビシャビシャになっているビジュアルが嫌、等々…。

ところが、松山を旅行した際に、Dienst Dollの「しな」さんというかき氷ガチ勢にお会いした結果、松山にもいいかき氷を出すカフェがあるという情報が入った。今回は旅行中に時間もある、街も狭いのでそこに行くための時間もかからない、昼酒と夜酒の間の酔い覚ましに良さそう、何よりこういう機運だ、行ってみようとなり、果たして「enowa」という店のピスタチオかき氷を食べた。

シンプルに美味い。濃いソースが冷たくも口の中で溶ける氷の力で広がる。クッキーを冷たいお茶で頂いている時のような、味の広がり方と口の中の水分の広がり方が面白い。なるほど確かにかき氷にしかできない事だ。冷やすことと加水する事で濃すぎる味でも食べやすくなるのはカクテルの感覚に近いとも思われ、これは色々食べて通になろうとする人もいるだろう。腹にたまらないのもよい。

結局受け皿はビショビショになったし、ハマるという感じはしなかった。とはいえ、良さは理解は出来たし、どういう時なら行くのに適しているかもわかった。今後人生で選択肢に入るようになって良かったと思う。

2022年8月:激落ちくん

100均で売っている、「激落ちくん」の偽物、大抵白い四角に微妙な顔の「激落ちくん(キャラクター)」の偽物が書かれていて味わい深い。マジで誰だよ、っていうかなんだよお前。

2022年8月:野沢菜

長野物産展みたいなのに行ったら、野沢菜の辛子炒め、辛子明太子野沢菜が売られていた。お前…お前…ちゃんと高菜さんに謝るべきだと思うがどうか?

文句を言うだけではいかん、とちゃんと買って食べてみたところ、高菜の辛子炒めや辛子明太子高菜と正直あまり区別がつかなかった。普通にプレーンの野沢菜と高菜を食べ比べるとちゃんと違いが分かるのだけれど、辛くするとよく分からなくなっている…そういう意味では、野沢菜はちゃんとお焼きとかで自分を主張してほしい。下手なことはせず、堂々と自分のことをして、そしてやはり高菜さんには謝るべきだと思うがどうか?

2022年8月:爪楊枝

ふと気が付くと爪楊枝がケースに数本しか残っていない。歯間ブラシ的な使い方をせず、たまに料理で肉やジャガイモの火の通りをみたり、ツマミを出す時のピックにする程度なので、全然減らないし、そういうつもりでいるから在庫も確認せず買い置きもしないでいた。結果、ある時急に「おや随分少ないな」となる。まぁそういうものか。今度買おう。

さて、たまにしか買わないなら別に安いものである必要は無くて、多少良いヤツを買ってもいいかもしれない。少なくとも100均よりはマシなものを…と思ったが良い爪楊枝ってどこで売っているんだ?

2022年8月:ゲルハルト・リヒター

展覧会に行ってきた。すごい。

色には「意味」は無く、ピントには「意味」は無く、見せるものと見えるものの文脈を生み出す「揺らぎ」にしか「意味」はない…執拗にそういう事をし続けていた。曰く、「私が描こうとするものは現実に関するメッセージとしては重要ではなく意味をもっていない」。

アブストラクト・ドローイングを序盤に見た時に「この人、逆にコンクリートの壁をずっと見つめられるんだろうな」と思ったら灰色一色のアブストラクト・ドローイングがあった。やっぱりか。展示として灰色の絵が4900色の板と同じ部屋にあったのはすごく分りやすく作ってあったと思う。4900の板も、1枚1枚の板はそれ自体としてはどうでも良くて、周囲の板との組み合わせという「関係性」にしか我々は見る「意味」を見いだせない…という事が、灰色の中にゆらぎのある一枚の絵がある事で説得力を以て語られていた。アブストラクト・ドローイングは純然たるゆらぎと色彩が再築する関係性を生み出す事を目的としている。(挙句、「でもゆらぎ自体は別に究極的にはガラス板が映す世界でも良くない?」みたいな無茶苦茶な問いまでしてくるんだよな…)

そして、リヒター本人は、意味をそぎ落としていって最後に残った「ゆらぎ」を絵として描くその技法に対して異様なほど練習して、確実に自分の技術にしている…とにかくストイックだった。しかし、本人はストイックでも、見る人間にとって「モナリザは蕪ではない」。写真とは、撮影と現像とは(そういう意味では、アウシュビッツの写真はマジで批判的で凄味があった)。現代芸術家として最高峰と言われるのは、この明確な技術(およびそれによる無意味さの表現)が分かりやすいからだろう。明確に論述されるポストモダン。それでいて自分は生き残るラインの説得。ドイツ人が哲学やるとこうなるんだよな…という気もする。

2022年9月:チンピラ

めざましテレビの占いが油断ならなくて出社前に見てしまう。先日は最下位の人に「何をやってもうまくいかない日」とまで言ったうえで「でも大丈夫!今日のラッキーパーソンは貸しがある人です!」と締めくくっていた。

ラッキーパーソンは、貸しがある人。すごい文章が来た。完全に文化圏がチンピラ。

はぁ、今日はマジでツイてねぇ…何をやってもうまくいかねぇ日ってのはあるんだよな…でもそういう訳にはいかねぇ、どうにかしなきゃぁ…。何があてがある訳でもねーけど。…おっ、と!おやぁ…?…へへ、案外これは、何とかなるかもしれねぇ…よぉ!久しぶりだな。そんなビビった顔をするなって。お前は今日の俺様のラッキーパーソンなんだからよ。そう、そうだよなぁ…

なぁ、オレ、お前に「貸し」があるよなぁ…?

2022年10月:ゴムの欠片

東京駅で先日、3-4センチほどの湾曲したプラスチックの欠片を見つけた。見た事があるはずだが、思い出せないまま数日、急に正体が分かった。

あれはスーツケースのキャスターが割れた破片だ。東京駅は重いスーツケースを運んでいる人が多く、かつては点字ブロックや階段の付近によくこの破片が落ちていた。

人の活動が戻ってきて、こういうものも帰ってきたのだ。楽しい旅だったのに突如キャスターが割れてガタガタ言うスーツケースを引きずる時のいやな気持ち、ああいう悲喜こもごもも、人々に帰ってきたのだ。

2022年10月:うどん

普段あまりうどんを食べないのに、2日で3食も食べた。群馬の方に行く用事があったので、そういえばうどんが美味しいはずだと食べた次第だ。行きがてらに武蔵野うどん、現地朝食で水沢うどん、帰りがけも小さいSAで肉うどんと舞茸天、まぁそれらしいラインナップだ。

夏に久々に高松に言って讃岐うどんを食べて改めて思ったけれども、うどんは確実にヒットを打てる代わりにホームランのような爆発的なうまさは無いように思う(ちなみにそばはその代わり、外した時のショックもデカいがホームランを打てるタイプだと思う)。そんな訳でどうもうどんを避けがちだったのだけれど、旅の中で感情のバフがかかること(テンションだけで多分ちょっと普段より美味しいと思いそうだった)、旅が忙しいので胃に負担をかけたくなかったこと、などを勘案してうどんばかり食べていたところ、目論見通りこういう時はバランスのいいうどんが凄く良かった。なるほど、こういうものなのだ。どれもこれも美味しく食べた。良い旅の記憶だ。

旅に同行した嫁は途中でそばを食べて「普通だった」と言っていた。そばだとそういうこともあろうな。こういう時のためのうどんなのだ。ヒットでも十分嬉しいものを、むしろ旅みたいなハレで食べてそつなくテンションを揚げる。普段食べないことでハレの時の祭り感が増すので、普段は食べないのがこの戦略の正解だろう。

という訳でしばらくさようなら、うどん君。君を東京で食べることはなるべく避けようと思う(文庫版編集注:この後本当に東京にいる時はうどんを食べない誓約を自分に課すようにした)。

2022年11月:飾り文字

業務メールで

一先ず明日朝一(ひとまずあすあさいち)

とあったのを「-先ず明日朝-」(ハイフン:まずあすあさ:ハイフン)と読んでしまって、随分ポエムな構成のメールだな…と思った。ポエムなのは私の頭だ。

2022年11月:ヘッドセット

会社で使うヘッドセットをヘッドホン型からイヤホン型に変えた結果、これまでは聞こえてなかった「在宅ワークの人の後ろの生活音」がよく聞こえるようになった。あぁなるほど、これか。

Vtuberの配信をスピーカーで聞いていると、特に自分には物音が聞こえなくてもコメント欄で何らかの音に言及している人がいたりする。これか。この差か。あるとは聞いていたけれど、イヤホンでは聞こえて、スピーカーでは聞けない音、これか。FPSとかもヘッドセットを良いものに変えてからやるべし、と言うけれど、こういうことなのだな。

でも会社用は安いヘッドホンの方がいいかもしれない。

2022年11月:営業中

ビルの外装工事で仮囲いがされていると中の店舗がやっているように見えないので、「営業中」という横断幕を仮囲いにつけていることがある。よいものだ。

まず、量産型で「営業中」としか書いてないもの。よい。何が営業中かはまるで分からないのが素敵だ。

ワンオフで中の店舗のロゴを印刷しているのも、これはこれでよい。個人でやってる飲食店とかがきれいなロゴ画像を持ってなくて、ガビガビだったり、「看板写真撮って加工したんだろうなー」という欠けがあったりするのが味わい深い。いずれ消えるものを作る事に対する担当の苦悩が見える。逆に綺麗なロゴだったりすると、仕事っぷりに感心する。

「営業中」だけの幕に店舗のロゴを別に用意して貼り付けているやつは、ワンオフのに比べて低予算でより荒っぽく、これも風情がある。

2022年12月:チャーハン

中華料理店でチャーハンを頼む。チャーハンと、スープと、ザーサイ、それにスプーンとお箸が付く。

こういう時、自分はお箸を使わない。使えない、かも知れない。スープだけでなくザーサイもスプーンですくってしまう。

だってそうだろうカレー屋で福神漬けだけお箸使う人見たこと無い、と思っていたのだけれど、先日あるカレー屋でアチャール用にとスプーンとは別にフォークが出てきたのでこの論が崩れた。それにそもそもチャーハンの件だって、店は箸を付けてきてくれているし、実際に使っている人も見たことがある。

でも箸を使う気にならない。何故かはわからない。

2022年12月:革ジャン

革ジャンを買った。デビューである。

おじさんになってきたことの良さの一つに、実は着れる服が増えるというのがあるのではないかと思っている。20代のころ、革ジャンというのは「似合うか、似合わないか」だった。選ばれた体格を持つ人だけが着れる服。それがなぜか、30代後半以降になると、革ジャンというのは「かっこいい人か、そういう人か」になる。チンチクリンでも「そういう人、いるなぁ」になるし、正直かっこよくなくても「そういう人、いるなぁ」として見れるものになる。全員、どういうスタイルで似合っているかは別として、似合ってはいるのだ。そういう人間の幅を年齢によって確保してきているのだ。

おじさんになることで、多分許されるゾーンは増えてきているんだろうなと思う。カッコイイ若者じゃなくなったことで、出来るカッコよさが増えたかもしれない。これはもっと、使っていっていいアドバンテージだ。多分革ジャン以外にもある。遊んでいきたい。

2023年1月:強気

沖縄で飲んでいて気付いたのが、ハイボールとかを濃くする際に「濃い目で」とかではなく「強気で」という事だ。

はじめは20代の子が言っているだけで、そういうものか程度に聞いていたのだけれど、30代くらいの飲食店店長同士でも「強気で」と言っていたので、多分沖縄で割と流行っていそうだ。

なんかいいな、強気で。

2023年2月:電球が切れる

廊下の電球が切れた。LED電球のはずで、長く持つはずだが…と思ったら記憶違いで蛍光灯タイプの電球だったらしい。まぁ良い。

ところで、フィラメントが焼き切れるから「切れる」だと思うんだけど、LED電球は寿命が来ても「切れる」ところが無い。これは蛍光灯の時からそうなんだろうけど、蛍光灯も「切れる」と言う。蛍光灯でもそうだったのだから、LED電球しか知らない子供でも自然に「切れる」と言うようになるんだろうけど、さらに後の時代になるといよいよ理由が分からないまま、「何故か電化製品が壊れる時に、電球についてだけ『切れる』と言う」という状況になるのだろう。

2023年2月:癖がある

「ろくろを回す」というインターネットの流行り言葉を聞かなくなって久しい。しかし流行り言葉は無くなっても手癖は無くならないし、うちの父は「ろくろを回す」のではなく「キャベツを振る」。手を顔の前で前後に振るような手ぶりをするのだけれど、両手でちょうどキャベツ大のものを持っているような感じだ。キャベツシェイカー野地。

ところでその父を見て育った僕は片手だけそれが移ったようで、右手だけを振る。その時に垂直ではなく少し回すように振るので、大きめのモルモットを撫でているような感じになる。モルモットペッター野地。

2023年3月:風邪

久々に風邪を引いた。ちょっと楽しかったというか、なんていうか、妙に安心してしまった。

体がちゃんとだるくなること、それが理由で家で寝ていられること、仕事を放置出来ること、しかし翌日の仕事に滅茶苦茶響くこと、快復すること。何もかもが久々で、生きているとこういうこともあるのだったな、という形で生を認識してしまった。

多分こんな感じだと、今何らかの事故で入院とかしたら妙に嬉しくなってテンション上がってしまいそうだな…という危機感がある。健康でありたい。

英国出張編:ぬいぐるみの話

今回の出張にはGiGOと774incがコラボしたぬいぐるみVerの大浦るかこさんを連れて行ったのだけれど、本当に心の平穏になった。別に話しかけたりする訳ではないし握りしめたりもしないのだけれど、そういう遊びを抱えていることで出張自体のしんどさに対して余裕があった。9時間の時差というのは本当に厄介で、あまり眠れなくて現地の朝4時に起きたりしてしまうと、ベッドから1分で机に向かえば日本の昼1時で、日本とのリアルタイムの仕事が出来てしまう。そのままこちらの朝9時まで仕事して、9時から出張業務(もちろんこれも仕事だ)をこなして、夜会食後に部屋に戻ると疲れ果ててバッタリ寝てしまう(そして早起きする)。本当に自分の時間が取れない。そういうミッションの中で、それでも机にぬいぐるみがいたり、食事の時に一緒に写真を撮れたりすると、何か最後の大事なところが守られているような気がする。飛行機の中の食事なんかも世間ではよく楽しみと言われるが結局は仕事の合間に過ぎない中、それでも、横に並べて写真なんか撮るとまぁ少し休憩した気になる。意識がちゃんと他のところに向いていることで助かっている。Twitterに上げる際の華にもなるという感覚があって、通信が出来なくてもつながっている気になっているのかもしれない。

パディントン駅で小さなパディントン(熊)のぬいぐるみを買った。サイズがGiGOぬいぐるみとちょうど良かったからだ。ただこのパディントン、コートのボタンは刺繍なのに、顔付はいい加減なつくりで個体差があったりして、よく分からない。顔つきについては味のある優しい顔にしたので、るかこさんと仲良くしてほしい。

2023年4月:名古屋めし

名古屋で一泊することになり、久々に名古屋めしと言われるものを少し食べる。

思うに、八丁味噌が苦手な人がいるせいで味噌文化とか独特の味付けとか言われがちだけれど、名古屋めしの真の特徴は「ソース文化」なのではないかと思う。これは大阪のソース文化とは異なる、いわゆる「これソースがメインまであるよね」という味付け、具体的にはデミグラスハンバーグとか、牛タンの煮込みとか、かた焼きそばとか、要は「(下品だけど)メインを食べたあとにソースだけ舐めちゃう」料理の系統の話だ。みそかつも、あんかけパスタも、どろっどろのカレーうどんも、どれも共通することは「かけ過ぎ」なのだ。だがそれでいい、なぜならそのソースを食べることが目的だから。そういう文化に思う。食べはしなかったが味噌カツカレーきしめんというものを出している店があって、味噌ダレはカレーに混ざってしまっていた。混ざったソースも食べるから、それで良いんだろう。

現地でメジャーな調味料「つけてみそ かけてみそ」もよく考えればコンセプトがおかしくて、付けるのにちょうどいい塩梅のものをぶっ掛けていい訳がないのだが、彼らはどちらも出来るとそう言い張る。そういうものだから。付ける時もめちゃくちゃ付けます、まるでかけるように付けます、そういうものだから。

味付けは嫌いじゃない。ただ、過剰だなぁとは思う。

2023年5月:入水

NHKのニュースでで飛び込み選手の紹介をしていた時に、妙に小気味よくそして恐ろしいフレーズがあった。

「この選手は、思い切りのいい落下と、正確な入水が持ち味です」

聞いた瞬間、「え?自殺?」と思った。入水って、そういう時以外に使うのか。

検証するに、着水じゃないのか?と思ったが、おそらくしぶきをあげずに飛び込む(水の中に入る)ので違うのだろう。なかなか「入水」の代わりになる単語も見つからないのだけれど、「入水」が正しいとは思えない。

そもそも水泳の「飛び込み」というのもなんというか、おかしさもある。「アクロバットダイビング」とかに名前を変えた方がいい気もする。

「思い切りのいい落下と、正確な入水。周囲をうならせる飛び込みでした」は、改めてやはりちょっと、やりすぎな気がする。

2023年6月:eコマース

eコマースって言わなくなった。言わなくなったことよ。

2023年6月:三匹の子豚

三匹の子豚における次男について考えていた。次男は物語的な意味において、何ら役になっておらず、長男と三男で話の構造は出来上がっているのではないか。

改めて考えてみると、木で出来た家を狼が吹き飛ばすのは、ちょっと想定外のことだったような気もする。手を抜き切った藁の家はもちろんのこと、通常大丈夫だと思われる木の家ですらリスクがあったので、しっかり石の家にしましょう…大分ビジネス的な教訓めいてきた。そうであればもう少し次男が善戦した描写はしてあげるべきだろう(大抵の話だと負け方はあまり三男と変わらなかった気がする)。「次男の家が負けた!?」にもっと注目してほしい。

次男が初戦で一度は狼を退ける、ぐらいの方が昨今の物語感、現代のプロレスっぽさが出るかもしれない。狼は諦めて三男の藁の家に向かうなか、実は長男の石の家もまだ完成しきっていない。次男は三男を助け自分の家にこもるも、初戦のダメージが響き二度目は木の家が壊れる。次男と三男は長男の家が完成していることを願い長男のもとに向かうと、果たして次男の時間稼ぎによって長男の石の家は完成していて、豚たち兄弟は勝利を収めた…ぐらいのシナリオまではやれる。最強で主人公なのは長男だがベストバウトは次男。

ここまで手を入れる必要があるかは知らない。

2023年7月:J.G.バラード

の初期短編集「永遠へのパスポート」をたまたま古本屋で見つけ、読んだ。たいして面白くない事に安心する。一つは、ちゃんと絶版になったものはつまらないものであること(レア本探しは徒労なのでやらなくていいこと)、一つは、バラードは(作風としてそうであってほしかったのだけど)ちゃんと修練で上達した人であるとわかったこと。

こういう読書もある。

2023年7月:割り箸お付けしますか

コンビニで「割り箸お付けしますか?」を一度の買い物で3回言われた。

「(レジに着くなり)袋入りますか?」
「あ、いらないです。それとホットスナック下さい」
「はーい。お箸いります?
「要らないです。」
「はーい。(ホットスナックを取って戻ってくる)お箸いります?
「要らないです。」
「はいはい。(お手拭きを引き出しから取り出す)冷たいものと温かいもの同じ袋でいいですか?」
「はい問題ないです。」
「はーい。(袋詰めをしていく)お箸いります?
「要らないです。」

察するに、このスタッフは机の上に商品を黙視するたびに聞いている。そこで「割り箸ヨシ」とならないと、聞き忘れのリスクがあるので聞いておく、というフローになっているのだろう。エラー対策としてはよく出来ているが、それはそれとしてコント感も出ている。早々に要ると同意してもらった方が本人も楽なんだろうなと思う。

でも要らないです。

2023年8月:知らない世界、知らない事故

嫁が通販で服を買ったところ、果たして郵送された小包に「品名:衣類(バッテリーなし)」とある。

一瞬考えたあと、ニコニコしてしまった。

バッテリー付きの服とは最近流行りの空調服とか、あるいはヒーターが付いた服で、大分一般化されてきたものだ。そしてわざわざ品名でバッテリーの有り無しを記載するのは、バッテリー入りの服だと空輸時などに事故が起きる可能性があるからだし、むしろこう書かれるようになったということは、僕が知らないだけでそういう事例があったと見るべきだろう。そういう知らないうちの事故が、知っている世の中の流れの裏で起きている。何にでも世界と歴史があり、その痕跡が残る。面白い。

2023年8月:中野

で飲む機会がありブロードウェイ含めて散歩した。買いたいと思うものが減って自分がつまらなくなったなと思った(こういう時に街がつまらなくなったというのは多分間違いなのだ。)けれど、それでも街にいる若い子は活気があって良かった。

普段大手町で働いているが、ここは逆に本当につまらない街だなと思う(一線張っててそう思うのだからこっちは自分が正しい)。街とは、そういうことではないのだ。三菱地所や三井不動産がどんなに頑張ろうと、オフィス街に面白い髪の色の元気な子がいない時点で勝負は決している。ブロードウェイは老朽化していようと、そういうところで元気はあるのだ。

2023年9月:猟奇

嫁が蚊に血を吸われ、その後血を吸った蚊を倒した。

血を吸った蚊は僕のビジネスバッグに止まって体を休めていたところを嫁に叩き潰されたので、果たして体内に蓄えていた鮮血は僕のビジネスバッグに飛び散ることになった。嫁の血が付いたビジネスバッグで通勤する男の誕生である。

このエピソードで最終的に僕が猟奇的な感じになるの、納得が行かない。

2023年9月:コショウ(防災の日)

会社の防災バッグに入っていたアルファ米が賞味期限が近づき、入れ替えのため古い方は家で食べろと指示が出た。ドライカレー味と言っているがどうせパンチは薄かろうと思ったら案の定で、そのままではあまり満足しなかったものの、予め用意していた胡椒をかけて食べたらこれはなかなかおいしかった。

以前嫁が入院した時、病院食のメニューを見てS&Bのテーブルコショー(あれはコショウではなくコショーなのだ)を持って行った。果たして嫁の入院生活は格段に良くなり、本人も「あれはマジで助かった」「大航海時代の意味が分かる革新」と言っていた。

防災バッグに胡椒を入れておいた方が良いかもしれない、というのは本当に思う。サイズとしても小さいし、ちょっとした避難中のQOL上昇グッズとしてはかなり良いのではないか。

2023年10月:生きている

たまたま、会社を辞めた後輩とすれ違った。横断歩道だったうえに向こうは友人だか同僚だかと一緒にいたので、おっ、となってお疲れ様と言い合ってそのまま別れた。連絡先も交換せずじまいだ。

最後の一点においては勿体無かった気もするが、ああ君も生きていたんだなという実感があった。その日は土曜で、僕は野球の試合がなくなった代わりに色々と予定の候補を立てつつ、最終的に久々に行きたい店でランチでもするかとグダグダしてから家を出た。そしてその店で食べ終わってるから次の予定地に向かう際に「別にこのまままっすぐ進んでもいいが、この横断歩道渡ったほうがあとが楽か」などと考えて足を止めた結果がこれだったので、真に偶然というにふさわしい。

生きているとこういうこともある、ということが起きている。つまりはそれが生きているということの気もする。

2023年10月:大浦るかこさんの誕生日(9月26日)

連絡がつかなくなった友というのはいる。もともと連絡先を持っている訳ではなくて、飲み屋の常連で顔見知り程度の人が、会わなくなったりもする。連絡はつかなくなったり、会わなくなったりしただけで、どうやら生きているらしい。

そういう人を「(もはや)友達じゃない」と言うのは寂しい話じゃないか、というのは先ほどの「生きている」の段の通りだし、折に触れて思い出したりしていいし、思い出せる素敵なエピソードや人物像があるのは人生の宝だ。

ミニ四駆をやらないかという話をもらってオウルレーサーにしたり、栄冠ナインクロスロードのエディットキャラにしたり、折に触れるかこさんを思い出し、勝手に生活に呼び起こしているのは、そういう「宝」を残しておきたいからだ(もちろんエゴサしているだろう本人や他の大浦るかこさんのファンに届いたら面白いな、という「連絡がつかなくなった」とは異なる思いが無い訳ではないが、それは副次的なもので、あくまで僕の遊びだ)。どこかで生きていることと、僕の中で生きているということ、両方が「生きている」の段を、人生の彩りを生み出す。だから後者の条件を残しておかなければならない。

誕生日という「生を受けた日」のあいさつとして。僕は覚えています。お誕生日おめでとう、大浦るかこさん。

2023年11月:マイルドにする

10月3日のめざましテレビだった。ハンバーガーの紹介をしていて、肉が食べごたえのある食感だという話の後にこう言った。

「チーズやアボカドがお肉の味をマイルドにしてます」

何か違和感があった。チーズやアボカドは「濃厚」なイメージで、個人的にはチーズやアボカドが牛肉を「マイルド」にしているイメージは無かった。どちらかというと、濃いもの同士で上手くシナジーを出している…華やかに共演・競演して良さを引き出すというイメージだ。でも、この「競演すること」を「マイルド」というのは若いというか、新しい日本語の感じがする。派手にしていこうと、とにかく「ワンマンではなくする」ことが「マイルド」。

覚えておこう。

2023年11月:大あくび

ファミマの無人レジで、大あくびをしながら2リットルの水を買うパンツスーツのOLがいて、なぜか「若いな」と思った。

要素を分解できていない。だが、この感覚はきっと正しい。

2024年1月:クラスメイト

なにかのニュースで、インタビューされている人の説明テロップで「被害者の中学生時代同学年だった友人」と書かれていた。

意味は分かる。だが妙な情報が多い。敢えて中学校時代は同学年と示すことで、高校に入ってから同学年じゃないこと(どちらかが留年なり浪人なり進学しなかったこと)がわざわざ分かるようにした理由は何か?別に「中学生時代のクラスメイト」で良くないか?その増えた情報とニュースとの関連も不明で終始変な感じがする。なにか物語性がある気がするが、よく分からない。

調べていくうちに展開するストーリーを自分で作るべきだろうか。

2024年1月:ラーメンらしさ

予てから小籠包には胡椒が合いそうだよなと思いながら、大体において小籠包が出てくる店は刻み生姜とタレを出してくるのでそれに従っていた。

2023年の夫婦忘年会は梅蘭で飲茶ということになって、果たして机には胡椒の小瓶があった。小籠包の上に穴を開けて、胡椒を振って食べた。

…驚くほど、ラーメンの味がする。

いや、たしかに近いものではある。油分を含んだスープ、肉、ネギ、小麦粉を練ったもの。親戚ではある。だがここに胡椒が入るだけでこうも似通うか。中華そばを思わせるのに醤油が要らないこともショッキングではある。ラーメンって何だ…?小籠包に胡椒ぶっかけたもの、ではないはずなのだが…。

2024年2月:花柄

ではなくボタニカルアート、というらしい。なるほど昨今の(特に男性向けの服における)草木がプリントされたデザインを「花柄」と書くと語弊があるというか、イメージが違うケースもあろう。確かに花の柄ではあるのだけれど、「花柄」というと柄のイメージが古くなってしまうのでボタニカルアートという。そうかもしれない。

同じ概念で語るには少し性質が変わってきてしまったものに対して、新しい名前を付けることもあるのだ。ロックミュージックやメタルの分化は正直良くわからないことも多いが、これらにも同じことが言えるだろう。同じ言葉を使い続けないことにも意味があると認識しないといけない。

2024年3月:ビスキュイ

スポンジで良いのではと思っていたのだが、ジェノワーズとビスキュイでは製法(卵の混ぜ方)が違うと知った。細分化したものが広く認知されている。ギモーヴもいわゆるマシュマロとは違う。

人々がその差を説明できて、また商品上の差を用語の違いからどこまでイメージできているのかは正直疑問もあるが、その差が大事な人も増えての新用語だと信じたい。門外漢なので分からない。その分からなさを楽しみたい。

何となく分かってないやつにオシャレさをアピールするためにやってる、つまり例えばそれはコージーコーナーや不二家がスポンジと言ってるからとりあえず差別化したいので別の単語を使っている…そういうわけではないと信じたい。伝わるべきことを伝えていてくれ。

2024年3月:物忘れ

町会の掲示板に「ものわすれ医療相談」というイベントの張り紙がしてあった。タイトルだけ見て通り過ぎたが、ちょっとしたボケの始まりに対する対処法とか、薬を飲み忘れないようにする方法とか、ものわすれに対する医療相談ということだろう。

そうではなくて医療相談自体がものわすれ気味になっていたら怖い。あーそういう症例はですね、えーと、何だったっけな…まぁ大丈夫ですよ。はい次。

2024年3月:痛み

昔より痛みに弱くなったように思う。ちょっと首と目が凝って痛いだけで何をする気も起きない時がある。平日で仕事があったり、休日でも予定があったりすれば何とかなるが、予定のない休日はその程度のことでもあれよあれよとベッドの上で時間が溶けていく。昔はそんなこともなく、痛いなぁとは思いながらも動けていたのだが。

痛みなんていうものは慣れなので本来強くなるものと思っていたのに、むしろ若い頃に比べて弱くなったのはどういう訳だろう。有り得るとすれば①精神的なガッツがなくなってきた、②痛みは変わらないが自分のHPが落ちて相対的にダメージが大きくなった、③感覚が鈍ったので「同じ痛み」と思っているものが実は過去より重症である、辺りだろうか。③が一番マシだろうか。いや、どれもそれぞれに嫌だな。

2024年4月:摩耗

お米がつかないしゃもじ、だったか、正確な商品名は全く覚えていないが、ともかく細かい凹凸があって白米をよそってもこびり付かないことを売りとするしゃもじがある。あれがうちにもあって、長いこと使っていたのだけれど、最近白米が付くようになってきた。おそらく凸凹の摩耗なりの、経年劣化があるのだろう。

白米しかよそわない、という、柔らかいものをずっと扱う処遇でも摩耗はしていくのだ。あるいは、摩耗の原因は洗い物をしているときのスポンジだろうか。いずれにしても、何か強いことをしているわけではなくても、長い時間で摩耗はしていく。川の流れや風の動きで石から砂が出来るように。

…いや、いいからとっとと買い替えよう。こんなことで自然を感じているより、生活を管理したほうがいい。

2024年4月:しゃもじスタンド


グダグダ言わずにしゃもじを買った。偉い。

ところで、百均で探した結果驚いたのが「立つしゃもじ」ばかりであったということである。え、そんなに立たせたいか?そもそも炊飯器にしゃもじを挿すパーツが付いてきているので、40まで生きて今までしゃもじを立たせたいと思ったことがない。ニーズが分からない。

結局立つしゃもじしかなかったので、それを買い、炊飯器の横に立てる。その後ろに、しゃもじを挿すパーツが見える。何かがズレたなという気がする。「おいおい、しゃもじスタンドが無い世界線に来ちまったなようだな。」というやつだ。違う世界線。

…いやマジで皆しゃもじを挿すパーツ無い炊飯器買ってるの?どういうことコレ?

2024年4月:ナイトキャップ

被ったことがない。被ってみたいわけではなく、知らない世界があると認識している。

そもそもどういう効果や意味があるのかと調べると、主に頭皮と寝具の摩擦の低減と、髪の保湿の話が出てくる。前者は枕カバーをシルクにすれば良い気がするし、後者は(髪の乾燥が気になるレベルなら肌にもよくないだろうし)加湿器のほうが良い気がする。まぁ古くからあるアイテムだから、より良い対策が出来ているのは当然だ。しかしそれでも生き残っているなら何かインターネットでは書かれにくい理由もあるのではないか。知り合いに利用者をついに見つけたので使っている理由を聞いたところ、うつ伏せで寝ても髪が口に入ってこないと教わった。仰向けで寝る寝相の良い短髪の男性では気付けない世界だ。ああ、そういうのが聞きたかった!と膝を打つ。

これにてナイトキャップの理解は終了とする。髪が口に入って「んが」とならない!

2024年5月:本人

「本人」と書かれたタスキ、何度見てもしっかり入ってこない。それが良い。

一体何の話かは言及したくないがここにいて声を掛ける理由は分かってほしい、という欲求を形にしたアイテムなので、そこには確かな甘えがある。だからこちらが敢えて理解を示さないでいると、もはや何も入ってこない。そうして放置される「本人」。雨やみを待つ下人のごとく、ただ一人で何者でもないまま放置されている。タスキを付けることで無視されていることも可視化される。

もちろん、僕がそうして受け取らない以上にあの甘えに応えてあげている人たちがいて、結果タスキにも効果があるとされているのだろうけれども。僕の目には都会で敢えて孤独になる人に見える。それがいい。荒野にただ一人、本人であれ。

2024年5月:目をつぶる

年を取るにつれ、数分目をつぶっているだけで体が楽になるという実感が強くなっている。寝ている訳ではなくても、ちょっと目をつぶっているだけで少し力が抜けて、疲れが軽くなる感じがある。立っていても大丈夫で、電車の中でも目をつぶっているだけで少し楽になる。

どう考えても目をつぶるだけで肉体が回復するとは思えず、何か別の理由があるのだろう。外界から適度に遮断されることが良いのかもしれない。つまるところこれはケアではなくフォローである。外に目を向けず、体に意識を向ける(だけの)こと。癒せない代わりに「大丈夫?」と声をかけること。

まとめてみて

60号、5年分だ。最後の「目をつぶる」を終わりにした理由もそうなのだけれど、自分の記事を追うことは「フォロー」としてすごく有効であった。コロナとそれによる外出自粛、課長昇進試験(不合格・合格それぞれ)とその後、かなり精神的に疲弊している時期があったことを思い出す。好調・不調でかなり選ばれる記事の数にもブレがあったが、大体は上記の不調さが原因だ。そういう自己を思い出せただけでも今回の編集は大事な時間だったと思う。

思い返すとこの5年における大浦るかこさんというVtuberの存在が大きく、ラジオ配信への投稿をなるべく欠かさず行っていたことが自分の表現にも影響があったことを実感した。改めて感謝したい。裏ラジというラジオ配信のトークテーマが実質長文大喜利と化していてかなり鍛えられたし、大浦るかこさんの人としての優しさも、大分社会へのまなざしに影響があった。るかこさんに関しては記事も多くあったのだが、その性質上いまはない動画へのリンクなどがあり削除が多くなった。英国出張時のぬいぐるみと、23年10月の誕生日エントリを以て記録としたい。

さて、noteには「呟きもしなかった事たちへ」だけではなく、単品記事もあるのだが、関連するような記事もあるので、おまけにそれを載せる。

君は鈴木その子を覚えているか。

知らない子からラブレターを貰ったことがある。今は自慢だ。だがそれで何かが変わったというとそんなことは無く、故にこのことを先日まで忘れていた。しかし「ラブレターを貰ったのは虚無だった」というのも当然嘘だ。何が生まれ、何が残っていて、何が消えたのか。またこのエントリーには、何が残るのか。

出来るだけ思い出していきたい。大学3年の時で、ラブレターをくれた子は中3だったはずだ。そのころ僕はバイトで古本屋の店員をしていた。駅前ロータリーの、バス停の前にあった古本屋で、バス待ちのお客さんが来るような店だ。そんな中で、制服を着た二人組の女の子がたまに来ては、クスクス笑って店を出ていっていたので、変な冷やかしだな、とは思っていた。その子はある日「鉄道員(ぽっぽや)」の文庫本を買っていった。買わなかった方の女の子はニヤニヤしていた。変な趣味だな、と思った。

それからしばらくして、「鉄道員」を買った子がラブレターを持って店にきた。手書きで、内容はちゃんと覚えていないのだけれど、塾の通い道で古本屋の前を通っていたこと、何となくいいなと思っていたこと、高校に受かったので塾には通わなくなること、出来れば連絡を貰いお付き合いをしたいことが書かれていた。携帯電話のメールアドレスもあって(LineやSNSじゃないのが当時だ)、確か「crusaders_(下の名前)@」だったと思う。返事の際に「鉄道員」を買った人ですよね?と言ったら驚いていた。変な趣味だとは言わなかった。

案外詳細を覚えているな、と自分でも思う。クルセイダーズは当時の自分の状況の都合かなり面白かった。当時僕は一度別れた彼女と付き合うことになっていて、友人に「レコンキスタされてるじゃないですか。相手は十字軍ですか」と揶揄されていた。そんな折に来た別の勢力がクルセイダーズを名乗っているのだ(ちなみにだから結局、メールでのその子との連絡は続かなかった)。さすがに忘れない。

「さすがに忘れない」と言っておいて、数年単位で忘れていたのだ。先日何らかのきっかけで思い出したし、思い出せた瞬間からは詳細が思い出せたが、数年間完全に僕の人生の中に無かった扱いのストーリーである。恐らくこの期間に「女性から告白されたことなどない」と言っている可能性があるだろうなと想像ができて愕然とした。思い出した時は洗い物をしていた皿を落とすところだった。ひどい奴だな、と自分のことを素直に感じた。

しかし考えてみれば、その子も今や33歳、当時のことを覚えているのかと考えるとそうでもないように思う。覚えているとしても、僕の名前とか見た目とかを覚えているわけではないと思う。その子には何らかの体験は生きているかもしれないが、僕がその子の中にいるということはないだろう。場合によっては、体験も消えているかもしれない。

その子その子とうるさいが、その子と言えば鈴木その子である。しかしあれだけテレビやメディアで引っ張りだこであった鈴木その子も亡くなられて22年、今の若い子にはもはや伝わらなさそうだし、正直このエントリーで思い出した人もこの瞬間まで忘れていていたのではないか。僕も忘れていた。あれだけテレビに出ていたのに、あまりに今の僕に関係がない。

鈴木その子と言えば、高校時代の先輩の彼女に「鈴木あの子」というあだ名がついた人がいることを思い出す。先輩のブログが彼女が出来た途端あの子あの子とうるさかったから、「あの子だがその子だが知らないが、その子と言えば鈴木その子」と冷やかして付けたあだ名だ(もちろん前段落はそのオマージュだ)。本人は知らない話だが、ひどい話にもかかわらず僕らはゲラゲラ笑っていた。でもあれだけ笑った鈴木あの子の話も、こうして書くまで10年単位で忘れていた。鈴木あの子その人自身は僕の人生にも全く関係が無いし、このエピソードが僕の何かを変えたこともないだろう。

人に、自分に、何が残っていて、何が消えていくのだろう。その子も、鈴木その子も、鈴木あの子も、僕も、人に何を残しているのだろう。何が消えていくかは確認ができない中で、そして消えたと思われていても思い出すという形で甦る(あるいは消えてすらいなかった)ものがある中で、自分を形作っているものをどう意識することも出来ないのだろう。だからこそせめて、覚えているものを、そして思い出したものを愛していくしかないのだろう。

知らない子からラブレターを貰ったことがある。今は自慢だ。

あとがき

シャワーをかぶっている時も、ずっと脳内は何かを喋っている。放っておくと永遠に文字に出来そうなものだが、文にしてみると大したことではないことがすぐに分かる。思考は必ずしも自分を構成していないし、散逸な思考なら尚更だ。しかも大したことのないものが多いとなれば、多くのガラクタに自ら埋もれるような日々である。

その中から、それでもこれは自分かなと思うものを拾い集めていくと、やがてこうした形になる。ストーリーのないキャラクターが出来上がった。こいつが何を為し、何の因果で皆様の前に現れているかは定かでないけれど、「ああまぁ、こういうヤツだよな」という像にはなったのではないか。そういう意味では、概念か、あるいはアクスタみたいなものにはなったかも知れない(この「概念になる」「アクスタになる」という思想も大浦るかこさんの影響がある)。

この本をお手元に置いて頂けて幸いです。ありがとうございます。


↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。