無作為と作為
京都で『正伝寺』や『蓮華寺』を訪れました。
『正伝寺』の庭は、白砂や白壁の中に緑が鮮やかな島が散りばめられています。その背景にはモミジや桜があり、さらに遠景には比叡山がどっしりと存在しています。この景色を濡れ縁から全景を眺めるのも美しいのですが、一歩引いた部屋の中に座り建具に切り取られたフレーム越しに見る景色も何とも言えず美しい。
『蓮華寺』の庭は、池泉回遊式庭園。池の周囲をモミジが覆い、背景には濃い緑の山が迫っています。こちらも均一に建つ柱越しに見える水面や石組、その背景の点が重なったような緑がとても美しい。
ただどちらにも言えるのは、自然を利用してつくられた人工物だという事。樹や石や山などを建築の中のこの位置から眺めるという意図に合わせ、人が美しいと感じるように配置されている。
あるがままの自然の美しさはむしろ人工物は存在して欲しくないと思ったりもしますが、建築と共にある庭は自然の素材をどうバランス良く組み合わせるかだなと感じます。作為だからこそ作れる美しさを、無作為のように表現しているのですね。
それにしてもどちらの庭園も、何時間でもここに座っていたくなるほど美しいです。