「価値」は日ごろの実践=執行から
「ソフトウェア経済の時代に、企業/事業価値を十分に評価しきれない古臭さ」についてたびたび触れました。その古臭さ、守旧的・保守的な姿勢が、この「失われた30年」の遠因になっている、そこまではっきり言ったのはこの日記では初かもしれませんが、逸失してきた機会は「なぜ日本からはAppleやGoogleは生まれないのか」「かつて日本にも優れた検索エンジンはあった」「P2P技術はワルモノにされた」といったトピックに象徴されるように、芽吹かなかったのではなくて「大きく育つ」ことができなかったことにつながっているように思います。
育つことができなかったのか、もう少し恣意的な意図で育たなかったのか、そこはわかりませんが…。
そのような「新しい」事業価値云々と言っていますけれども、新旧の差・違いは何なのか明瞭に把握できているか、自問する日々です。
事業価値は「定義」半分、「執行」半分。理想を追って「新」を声高に主張し行動するのもそれはそれで起業家の「覚悟」だとは思いますが、そうしたところでどこかの時点では「古典的な」物差しにおいても「傑出した」評価を得なければならないのだろうと思います。
んー、もう少し精確に言うならば、新しい物差しは古典的な物差しを「否定」していなくて、「新しい視点、いままでにない物差しを追加する」、拡張するカタチなんだろうと考えてます。だから、「新しい部分で評価されると、一定程度”古典的”な部分の評価も高くなる」と。
で、さきほど事業の評価創出は執行が担う、仕上げるものと書きました。
執行組織のひとりひとり、とりわけ管理を担うものは自身の行動が「事業評価、企業価値を高めているか」「評価、価値創出の機会を、あたら逃してはいないか」を意識して欲しい、そう思います。
先日、とある機会があって内勤の方が外部の方との接点を持つ場面に同席できました。
んー、ふだん内勤の方は…ある意味、純朴にご自身の言葉を発するものだなぁと、まぁ、苦笑を伴いながら感心しました。
いや、苦笑している場合ではなくて、その方も執行管理者でもあるので、業務管理の面でも組織(ライン)管理の面でも、「組織の一員として」行動し、その評価が、正であれ負であれ組織に還元されひいては自分にも組織の構成員ひとりひとりにも返ってくる、という「原理」の周知や実践をもう少し意識付けしていかなければならないなぁと思った次第です。