「ロックだな」「それどういう意味?」

何人かのひとから「ロックだな」と言われたことがあります。
面映ゆい気持ちが大半ですが反面ちょっと困ったことだなとも感じる点があります。

ロックだと言われたとき、自由を大事にする哲学だなということなんだと思っています。それはその通りで、そう言われるのは良いことだと思っています。
一方で「反権力的だな」というニュアンスも含んでいるようです。これは私の中ではそれほど単純ではありません。
決して反権力を目的とするものではありません。が、では権力を中心に考える立場かというと、その成立には厳しい条件があるだろうというのが私の立場なんですが、そこは今回の主題ではなくて、「反権力になってしまう副作用」が悩ましいお話を書いておきます。

今日のニュースだとスーダンのお話です。
軍政のクーデターが起こって、デモを中心とした反クーデターの市民運動を抑えこむために「通信(インターネット)を遮断した」と報じられています。ミャンマーでもそうでしたし、香港も、古くは「アラブの春」でもそうでした。
これは「通信の自由」にはそれだけの「力」があることを示しているんだと思います。

「ロックだ」と言われるのは、当社製品のポジモ https://www.poggimo.jp/ の話、とくに製品企画動機や製品コンセプトを話すときです。
「誰もが繋がりたい相手と繋がれる」
おそらく私が一生涯大事にしていくだろう信条ですけれど、スーダンのようなニュースを耳にするとこうした道具は、そもそも「自由な通信」が「不安定化」の ”主犯” なのか、と…。

不安定化を望んでいるわけではないのです。
むしろひとりひとりがそのひとらしく生きていけるしあわせな世の中のために通信の自由がもっと深まって広まっていくのが良いと思っているのですが、その際、少々の副作用を伴うことはあるだろうと思ってはいます。
ですが、あるところでそれは逆転してしまい「不安定化への影響」の方が大きくなってしまうのかなぁと。

「不安定化」は怖いことです。その怖さのために「自由を制約」するのは即効性のある簡単な方法かもしれません。でも根本的な原因はそこではないはずで、制約した自由を取り戻す労力も考えると、「即効性」には目をつぶって「根本治療」をするのが良策だと思うのですが…。
根本治療には「自由な通信」は不可欠なんじゃないかな。

これからもずっと考えていかなきゃいけない問題だな。

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