「専門」自意識の陥穽
日ごろから「ワンドロ」状態ですが(笑)、今朝はいっそう時間がなくなってしまって全力疾走で書き上げます。「仕上げ」までいけるのか(笑)。
ときどき「充電されてない!」ってこと、ありませんか。
それって充電制御のためのソフトウェアがなんらかの理由で充電を止めていた、としか思いようがないのですけれど、ログでも残っていなければ検証のしようもありません。
朝になってそんな状態だと「えー、今日一日この電池残量でどうやってしのぐのよ」ってなりますね。
ふと思いました。昔の充電器はどうやって充電していたのか。
今を遡ること半世紀弱、すでに「二次電池」はラジコン等で子どもの入手可能な範囲にありました。その充電器・バッテリーに「ソフトウェア制御」が入っていたとは思われません。「機械的」に過充電が抑止されていた、ということです。
そう言われてみれば、ハード的に過充電を抑止する方法はいくらも思いつきますが、いまはそうでも言われなければ「ソフトウェア」でやってしまうでしょう。
スマホには「いたわり充電」などバッテリーを保護するための高度な機能が実装されています。「あなたは充電しながら使っていることが多いですね。そういうことしてるとバッテリーが早く傷みますよ」と、”ありがたい”忠告までしてくれます。
そうした”ありがたい”機能には、ソフトウェアである以上宿命的にどこかに「バグ」があり、そうしたことが冒頭書いた「あれ?」ということにつながっているのだと思います。ハードであれば「つなげば、とりあえず、所定の”現象”は起きてしまう」。
先日、小学生向けにソフトウェア開発のシゴトの紹介をする機会があったことはこちらにも書きました。
その準備をする際に、「ソフトウェア的であるとはどういうことか」を説明しよう、と考えてみたのですが、むしろ私たち”老人”よりも彼らの方がはるかにソフトウェア脳なのです。なにかを為そうとするとき、ソフトウェア的な発想は浮かぶでしょうけれど、それを「ハードで実現する」という発想はそうした「制約を受けるまで」おそらく生まれない。
「ヒトは、後天的にソフトウェア脳になる」と思っているのは、ソフトウェアやソフトウェアエンジニアリングが珍しかった”私たち世代”だけ、なのかもしれません。
だから「教えてやろう」なんて高慢な視座になってしまう。
このことに学んで、何ごとにつけ「自分の専門だから。自分の方が知っているに違いない」などと思わずに、「より良いこと、望ましいことって何だろう」ってことを知恵を出し合って共に探っていく、という姿勢でいたいものだなと思います。