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下書き : 性格の悪さについて

 物心ついてしばらくの間、いい子でいることが何よりも大切だと思っていた頃の私は、自分の心が綺麗で、自分は優しい人間になれると思っていた。何でも先生や両親に言われた通りのことをして、やってはいけないことをしないことで、私は"いい子"と言われる自分を形作っていった。褒められるべき自分のことが、私自身も大好きだった。

ある時から、私には五つ歳の離れた妹ができた。三人兄妹の末っ子は、この世の苦労を全て免除されているかのような、柔らかくて愛らしい笑顔をしていた。家族みんながこの天使を可愛がった。はじめはみんなと一緒になって彼女の世話を焼いていた私だけれど、いつからか嫉妬という感情が芽生えるようになった。よく妹をいじめては、母に叱られていた気がする。謝る私を心優しい妹はあっさり赦してくれたけれど、醜い私は妹をいつまでも恨もうと努めていた。少しずつ大人になって、自分の心の醜さに気づきはじめた私は、段々と自分のことが嫌いになり、妹の心根の美しさを羨ましいと思うようになった。

自分の醜い心を矯正しようと苦慮した時間は、私をますます嫌いにさせた。心優しい人ならばこうあるべきだ、という私の中の"綺麗な心"に、醜い心はことごとく赤ペンを入れられた。赤で修正された通りに、頭の中で優しい言葉をなぞってみると、心が「違う」と悲鳴をあげた。「いいよ」と笑って譲ろうとしても、心の底の沸々とした怒りや恨みは隠しきれずに漏れ出していた。"いい子"であろうと努める程に、私の性格の悪さはどんどん酷くなっていった。

"いい子"であれない自分に自信を失い始めた頃、いじめというものを経験した。三人しかいない、小さいながらも唯一のコミュニティで、仲間はずれにされて、攻撃の的となるのは、恐ろしい程に惨めで、涙を堪えきれないくらいの悲しい出来事だった。そんな時に、心配してそっと声を掛けてくれた友達がいた。私の涙に驚いて、いじめに気付けなかったと、一緒に涙を流してくれた母親の愛情があった。優しさに触れた心は、心地よい涙を流した。心が傷付く痛みと、本当の優しさを知れた私は、以前よりは心優しくなれた気がした。

いじめられた経験を、あって良かったと思えるようになった頃には、今度は「自分の言葉で人が傷付かないか」という心配が、私の頭を支配していた。グループ同士の対立があれば、どんな情報にも疎いフリをして関わりを避けた。誰の悪口を言われようが隣で相槌を打つだけで、自分からは何も言わまいとした。それはそれで協調性が無いと疎まれたり、ノリが悪いと思われたかもしれないけれど、自分が人をいじめる側の人間になる事だけはなんとしても避けたかった。私は、群れるためのコミュニケーション能力と、ノリの良さを身に付ける機会を失ったが、この環境から一刻も早く抜け出したいというやる気と、それを達成するに足る勉強時間を手に入れた。

やっと手に入れた新しい環境は、想像していたよりもずっと良かった。いじめられている魚を水槽から出してあげても、狭い水槽に入れられた魚たちは、次の魚をいじめると何かで読んだ。自分がいたのは小さな水槽で、ついに川まで出て来れたのだと、期待に胸が膨らんだ。いじめという概念のない世界は、澄んだ水のように輝いていて、水槽に投げ込まれていたエサとは全く違った、いろんな栄養に溢れていた。やりがいや楽しみが人それぞれにあって、誰もが活き活きとしていた。

自分の中の暗い思考や感情に、いちいち落ち込んでは自己嫌悪に陥っていた時期の私は、括弧のついた引き算を思い出した。マイナスをマイナスで引くのである。どんなに頑張ったっていずれ死ぬのだから、そんなに無理しなくたっていい。どんなに酷い失敗だって、死ぬような程度ではない。後向きにバックさせながら車を進めるのは、効率が悪いけれど、前進できない車に乗っている以上、こうする他にないのである。やってみると、前向きに走ろうとしていた頃よりも、案外スムーズに進んでゆくから、常識に囚われないというのは大切だと、身を以て感じるのであった。

常に後向きに走っていると、時々、前に進めなくなって困っている人に遭遇する。「あんまり他人に自慢できる走り方ではないけれど」と変な走り方を教えてみると、案外スムーズに進んでゆくから、みんな常識に囚われているのだなと、常識を恐ろしく思うのである。

今でも定期的に、全てのことがどうでもよくなって、あらゆることが面倒くさくて、「死んだら何もしなくていいのになア」と思うことがある。こんな命を軽んじた考え方はきっと"常識"に怒られてしまうのだろうけれど、私の心がそう呟いたのは事実であり、"常識"だろうとその心を変えることは出来ないのである。そして、本当の意味で私を殺し得るのは他でもない"常識"であるということを、知っている人はきっと殆どいないのである。「死ねたら楽なのになア」という考えだけで死ねる人はそうそういないが、「死にたいと思ってしまう自分はなんてダメな人間なのだろう」という自己嫌悪は案外簡単に人を殺してしまうのである。「死にたい」気持ちもその人の心の声の一部であって、他人が安直に殺していい感情ではないのである。「死にたい」気持ちのsuicideをやめた私は、以前よりも生きるのが楽になった。

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