ゴールデンドロップ(映画部原案)
※こちらは投げ銭方式となっております。
どうぞ最後まで、じっくりお楽しみください。
紅茶を淹れる際、ゴールデンルールというものがある。
それはそれは由緒正しい、紅茶の美味しさを余す事なく引き出す手順だ。
お湯を沸かすところからはじまって、私の喉を潤すまで、ゆうに20分を超える。
いや、それは、おっとりした姉の性格から導き出される時間なのかもしれないけれど。
7歳上の姉は、紅茶が好きだった。
特にその、ゴールデンルールとやらの手順を踏んで、ガラスポットの中でくるくるまわる茶葉を眺めている事が、とてもとても好きだった。
せっかちで面倒くさがりな私には到底理解し得ないのだけれど、その手順を覚えている事すら奇跡に近いのだけれども、姉の事を思い出すと、その光景ばかりが浮かぶ。
カウンターキッチンで、組んだ両腕に顎を乗せて、愛おしそうに茶葉を見つめる姉。
目の前のケーキをおあずけ状態にされながら、姉の淹れる紅茶を待つ。
はやくはやく、と急かす私に、姉はいつも微笑みながら言うのだった。
紅茶は、ゴールデンドロップが――――最後の一滴が、いちばん美味しいのだから、と。
・
小峰 由香、24歳。
独り暮らしの平凡OL。
そして本日、職場で大失態をやらかした冤罪をうけたのち、飲み会の勢いで流されてお持ち帰られた彼氏に「飽きた」の一言で捨てられるという、散々を通り越して無惨な家路に着いたのが、私である。
荒々しく鍵を開け、騒々しくドアを閉め、ヒールを脱ぎ散らかしてから直行するは冷蔵庫。
片手でプルタブを押し込み、黄金色の炭酸を一気に流し込む。
すいませんお姉様。
貴女が愛した黄金色とは似ても似つかぬこの液体で、私は現実逃避をしています。
そんな懺悔を嘲笑うかのように、放り投げた鞄の中で携帯電話が喚いた。
見なくともわかる。
この時期、盆が迫った夏の深夜に、見計らって電話をしてくるのは一人しかいない。
母だ。
「もしもし」
缶ビールを携えながら、ソファへ移動する。
わかりきっている用件を、母が口にするのを待ちながら。
「あー…うん、そうだね、そんな時期だね」
適当な相槌。
毎年の事だ。
盆も正月も煩わしい。
親戚一同が介するそこへ、独身女が浮いた話ひとつ無いまま乗り込むなど、公開処刑もいいところだ。
回避しようにもかなわない集中砲火。
「うん、はい、わかってる。ちゃんと行くから」
電話の向こうで、母が安堵したのがわかる。
そして念を押すように、最後の一言を発する。
その一言が、なによりも聞きたくないのに。
その一言で、私の体は、心は、一瞬にして萎えて、竦んで、今すぐにこの世界から消えてしまいたくなるのに。
―――お姉ちゃんも、待ってるからね。
ああ。
また言ってくれましたねお母様。
私は、その一言が、世界でいちばん大嫌いなのですよ。
・
姉が亡くなったのは、私が17のときだった。
享年24歳。
交通事故で、あっさりと、あっけなく、逝った。
成績優秀、趣味は料理、面倒見も良くそこそこ美人。
腰まで伸ばした髪はゆるい癖っ毛でふわふわで、華奢な身体には小花柄のワンピースが良く似合った。
先のような親戚一同の宴があれば、酌に回り、話に興じ、皆の機嫌を上々にして帰路に着かせる。
そんなことを厭味無く、素直にやってのけるひとだった。
憧れだった。
こんな女性が自分の姉であることを誇りに思った。
いつか自分も。
かなわなくても、こんな女性に少しずつ近づけたら。
そう思っていた。
なのに。
棺におさめられ、花に埋もれて目を閉じている姉。
交通事故だったわりに外傷は少なく、まるで毒林檎を口にしたお姫さまのようだった。
死際まで、死姿まで、美しかった。
そして、その姉を失った私の世界は、醜い影に蝕まれながら――――崩壊した。
・
高校卒業後、大学進学とともに、私は家を出た。
其処此処に残る姉の面影と、憔悴しきった両親の姿に、耐えられるような器は私には無い。
特に父の―――諦めきって生気を失ったような眼。
娘が二人いたことなど忘れてしまったような、寧ろ最初から娘は姉だけで、その一人娘を喪った可哀想な父親そのものだった。
そんな父を見ていたら、私に出来るのは、その状況をさらに深めてやる事だけに思えた。
私が家を出れば、そこには、母と、姉の仏壇だけになるのだ。
その家の中で、存分に悲しみに浸ればいい。
そしていつか、乗り越えてくれればいい。
母と一緒に、娘の死を、受け入れてくれれば、それで。
私などいなかったと思われたほうが楽だった。
――――私が代わりに死ねばよかったと、思われるくらいなら。
そう思って自己嫌悪になるのは―――私だけでいい。
・
ふと、我に返る。
時計を見ると、午前3時をまわっていた。
いかん。
とっととシャワーを浴びて、明日の出勤に備えねば。
明日の、怒涛の、詫び廻りに備えねば。
そこまで思って、ふつふつと怒りが沸いてくる。
なぜ私が詫びねばならないのかと。
そもそもあれは。
「…自業自得、か」
独り言ちて、残りのビールを飲み干した。
自分の仕事を、自分で完遂しなかった。
だから詫びねばならないのだ。
そういうものなのだ。
きっとぜんぶ、いつだって。
私が悪ければ、それでいいんだ。
・
激しい雨の音で目が覚めた。
まだ、薄暗い。
寝惚けた身体を起こして、ベッドの脇のカーテンを少し開く。
外は、ひどい台風でも来たかのような有様だった。
遠くでは微かに雷鳴まで聞こえる。
出勤までには止んでくれるだろうか。
そもそも今は何時なのだろう。
起きる時間の少し前なら、このまま起きてしまったほうがいい。
こんな雨では、交通機関にも影響があるかもしれない。
昨日の今日なのだ、少し早めに出るくらいでちょうど――――
窓の外を見ながら枕もとを探って、気付く。
携帯が無い。
いつも枕の右側に置いて眠っているはずなのに。
寝ている間に落ちたのだろうか。
いや、それはない。
床に落とすのが嫌で、わざわざ右側に置いているのだ。
そして私の右側は、ぴったりとベッドを貼り付けた壁、そして窓。
「ソファに置きっぱなしにしちゃったかな」
時間がわからないのでは、おちおち二度寝などしていられない。
第一、携帯を持たずに仕事には行けない。
私用と社用を分けられるほどの社会的地位や金銭的余裕など、一端のOLに有りはしないのだ。
とはいえ、普段は職場からの電話などほとんど無いに等しいのだが。
「今日に限っちゃマズイでしょ…」
いつ何時、今からここの部署まで来いという指示が来るかわからない。
私が被った罪は、社内で関わらない部署はないと言っていいほどに大きな取引先が絡んでいる。
冤罪とはいえ、全く関わっていないわけではないのだし、誤解を解くにしても、頭に血が上った上司を嗜めながら説明をするよりは、事後処理をすべて済ませてから事実を伝えるほうが賢明だ。
よし、起きよう。
そう決意して、ベッドから足を降ろした瞬間、違和感を感じた。
雨音が消えている。
通り雨のようなものだったのだろうか。
もう一度、カーテンの隙間を覗く。
覗いた数秒後、考えるよりも先に、私の手はカーテンを払っていた。
窓の外に広がる景色に、呆然とする。
私が目にしたのは、それはそれは見事な夕焼けと、傾いた太陽だった。
・
終わった。
たぶん、いろいろと、終わった。
部屋着のまま、ソファに沈む。
文字通り、沈み込む。
冷蔵庫からビールは出したものの、脱力しすぎて飲む気になれない。
あのあと、夕焼けをバックに部屋中をひっくり返して携帯を探したが見つからず、とにかく会社へ向かおうかとも思ったが、行ったところで着いた先には誰もいないだろう。
よしんば誰かいたとして、あわよくばそれが知った顔だったとして、それからどうする。
おそらく当事者がいない状態で頭下げまくりツアーに出た上司が、両手を広げて迎えてくれるわけもない。
大失態の末に無断欠勤という社会人として最低の烙印を押され、暗に、いやもう直接に、辞めてくれと言われるのがオチだ。
そこまで一気に考えをめぐらせたのち、酸欠にも近い状態でベッドに倒れた。
そしてあろうことか、そのまま、寝た。
当然ながらとうに陽は落ち、真っ暗な部屋で再び目覚め、今に至る。
言うまでも無く、最悪の展開である。
「あ~、どうしよ…」
ソファに身体を預けながら、天井を仰ぐ。
どうしようもこうしようも、選択肢などない。
明日の朝、いちばんに会社に行って、ひたすらに頭を下げるしかないだろう。
勿論、鞄には辞表を忍ばせて。
このまま雇い続けてくれるのならばありがたい反面、周囲から向けられるであろう痛々しい視線に耐える自信は無かった。
期待に応えられなかった人間に向けられるあの視線が、私は何よりも怖い。
怖い。
その先だって、考えれば考えるほど、私の身を竦ませる。
再来週には、法事で実家へ戻らなくてはならない。
その時、これを話さないわけにはいかないだろう。
大ポカやらかしたあげくに寝過ごして会社辞めました?
母は困ったような顔で笑うだろう。
父は、きっと私を見もしないだろう。
お先真っ暗だ。
胃が痛い。
吐き気がする。
必死で抑えていた感情が、また私を飲み込もうとしている。
姉を亡くしたあの日から、ずっと。
抑えても抑えても沸きだすどろどろとした気持ち。
「…消えたい」
意に沿わずに生涯を閉じた姉を思えば、生きている私がどれだけ恵まれているかなんて言われなくてもわかっている。
けれど、生きているのに、残ってしまったのに、求めてもらえないならどうすればいい?
かなわないとわかっていても、自分の存在を消したいと口にするくらい、許してくれてもいいじゃないか。
「お目覚めですか」
誰もいないはずの部屋に、知らない声が響いた。
心臓が跳ねるとはこういう事を言うのか。
無意識に玄関を振り返る。
そこには、見た事も無い女が立っていた。
・
「ちょっと、あなた、どこからっ…」
慌てふためいた私が言えるのはそれくらいだった。
どこから入った。
いままでどこにいた。
ていうかアンタ誰だ。
「ご心配なく、説明はこれから致しますので」
そう言うと、女はつかつかと歩いてきた。
土足で。
靴脱げよ、と頭の隅で思いながらも、私は女をかわす様に玄関へ走った。
きっちりと後ろでまとめた黒い髪、黒縁の眼鏡に黒いスーツ、少しヒールの高い黒いパンプス。
小脇には黒いファイルのようなものを持っている。
風貌からして幽霊とは程遠いが、どう寛容に考えても不審者な事は間違いない。
とにかく部屋から出て、誰かに助けを乞わなければ。
ドアノブに手をかけた瞬間、女が言った。
「開きませんよ」
言い終わると同時に、ドアノブがありえない抵抗を見せる。
動かない。
どんなに力を入れても、ガチャガチャ喚く事も無い。
ドアのような壁に、突起物がついている。
そう表現するほうが相応しいものに、目の前のそれは成り果てていた。
「説明を致しますので、こちらに」
振り向くと、ちゃっかりとテーブルの前に座っている。
女の横には、そこで脱いだらしい例のパンプスがきちんと並んでいた。
行儀良く正座する女の前で、私の代わりにビールが汗をかいている。
私はいろんなものを諦めて、女の前に位置取るソファへと戻った。
・
「申し訳ありません、お目覚めはもう少し後になるかと思っておりましたので」
「…はあ」
もうどうにでもなれ、と思うしかなかった。
説明とやらを聞かなければこの女はずっとここにいるのだろうし、部屋から出られないのなら打つ手も無い。
そしてここへ来て、私の携帯をどこかへやったのはこの女だとなんとなく確信していた。
「必要事項のみ申し上げます。
貴方様は、厳正な審査の結果、我々の保護対象と決定されました」
「…はい?」
「詳細についてはお教え出来ませんが、自殺者増加を防ぐための組織が我々です。
そして貴方様は、その危険性があると判断され、我々が保護する事になりました」
…説明になっていない。
そもそも、自殺なんて考えた事も無い。
「何か勘違いしてるんじゃないですか?
私はそんな事しないし、もししようと思ってたとしてもなんでそんな事あなたにわかるんですか」
いらつきながら、思った事をそのままぶつける。
私はこんな女を相手にしている場合ではないのだ。
「自殺の定義が違います」
「は?」
女は資料のようなものを繰りながら、こちらも見ずに続ける。
「貴方様が思われている自殺ではありません。
我々が危惧しているのは、精神的な自殺者の増加です」
「精神的…?」
それこそ聞いた事が無い。
精神が壊れてしまうとかならともかく、精神を自分で殺せるとでもいうのか。
「そうです」
考えを読まれたかのような返答に、身体が強張る。
なんなんだ。
何者なんだ。
私に何をしようというんだ。
「世界には、自分の心を犠牲にして生活していらっしゃる方が大勢です。
その中でも、とりわけ期間の長い方、そして、将来生きる希望を失うほどまでに心を抑えつけている方が、我々の保護対象となります」
「あ…」
そこまで言われて、ようやく気付く。
心を抑え続ける事。
自分の心を、殺し続ける事。
それが、精神的『自殺』――――。
反論出来なくなった私に、女は淡々と説明を続ける。
「そういった方々が、最終的に行きつく答えは大体同じです」
「答え…?」
「皆様、自己の消滅を望まれます」
女は、何の躊躇いも無くそう言った。
そしてそのあと、初めて、私へ顔を向けた。
・
女の話を要約すると、こうだった。
自己消滅を望む人間は、その術を見つけられず、結局は肉体ごと―――つまり、一般的に認識されている自殺を選ぶしかないという事。
そして、誰にも見つからずに、迷惑をかけずに、という心理から、大変発見しにくい方法及び場所を選択する傾向にある事。
結果、過程を失敗して自殺自体は免れても、発見されにくい事が原因で息絶えてしまうケースが非常に多い事。
「もちろん、衝動的に自殺を選択される方も保護できるのがベストです。
ですが、そういった方は保護する為に必要な分の情報を得る前に行動に移ってしまわれます」
そこで注目されたのが、まずは精神を自身で封じている人間、と言う事らしい。
生い立ちや家庭環境、性格、嗜好、諸々を組み合わせて選別し、情報を管理し、危険性が高まった際、保護に移るのだという。
「…それで」
一通り話を聞き終えてから、私は口を開いた。
ずいぶんと黙ったままでいたせいだろう、中途半端に乾いた口内が気持ち悪かった。
「具体的に、保護って何をするんですか」
女の言い分や何やらは無理やりに飲みこんでも、この返答次第ではお帰り頂くしかない。
保護という大義名分で、この軟禁状態を続けられてはさすがに困る。
「一週間ほどかけて、貴方様に関係するあらゆる記憶を排除します」
「は、い…じょ?」
全うな答えを期待していたわけではないが、それにしたってこれはない。
やっぱり何がなんでも叩き出すべきだった。
もう無理だ。
付き合い切れない。
「保護開始から既に2日が経過しておりますので、残り5日間で排除は完了となります」
「2日!?」
自分でも、驚くほどの声が出た。
今から一週間ではないのか。
なぜ既に実行に移されているのだ。
排除の意味もわからないまま、了承もせぬまま、私の何かが『排除』されている。
全身が粟立った。
「私はそんなこと望んでもいないし頼んでもないでしょう!?
大体、排除ってなんなの!!
私に関する記憶ってどこからどこまでよ!!
私から、一体何を奪ったの!!」
わけのわからない恐怖も手伝って、一気に女へまくし立てた。
勢いで立ち上がったまま睨み付ける私をちらりと見てから、女はまたも淡々と答えた。
「しがらみです」
身体の力が一気に抜ける。
私を受け止めたソファが微かに軋んだ。
「人同士の繋がりと言うのは、糸で結ばれているようなものなんです。
けれど我々は、その中のどの糸が直接的な原因になっているかは判りかねます。
統計的に見て、様々な糸が関係している事が普通ですし。
ですから、繋がりの薄い、細い糸から順に切り離していきます。
この2日間、大半の細い糸は切って参りました。
例えるなら蜘蛛の糸ほどの細さのものばかりですが、この類の糸が一番多いもので」
「切って参りました、って…」
「それでも、その類の糸を切っただけで、貴方様は丸2日、お眠りになっていたんですよ。
貴方様を縛るものが減った―――つまり、しがらみが減った事で、その分深い眠りに入られたんです」
…ダメだ。
理解したくないのに、理解しかけている自分がいる。
つまり。
つまりそれは。
「…私と関わった人から、私の記憶を消していくと言う事ですか」
消えたいと、願い続けていたから。
姉が死んだあの日から。
自分なんて要らないと、みんなが忘れてくれればいいのにと、心のどこかでいつもいつも願っていたから。
「正確には、双方の記憶です。
相手の方が忘れただけでは、貴方様のしがらみは消えません」
「…じゃあ、どんどん忘れていくんですか。
今覚えている人の事も、知らない事になるんですか」
「そうです。
既に、貴方様の無意識に存在していた方の記憶の排除は済んでおります。
もっとも、現時点では、単にすれ違っただけの方や、お買い物等で金銭の受け渡しをされた方程度の糸ですが」
忘れていく。
忘れられていく。
同時進行で。
とても悲しい事のはずなのに、そして既に私の身に起こっているのに、何の実感も無い。
そして女が部屋を出れば、また糸を切るのだろう。
徐々に太いものへ対象を変えながら、ゆくゆくは、全ての糸を切るのだろう。
何の痛みもないままに、私は、独りになる。
何の悲しみもないままに――――私が、消える。
「ご理解頂けましたか」
茫然自失の一歩手前で踏み止まる私に、女は問う。
「なんと、なく、は」
そう搾り出すのが精一杯だった。
そうですか、と、女は立ち上がってヒールを履き直す。
だからそれは玄関でやれってば。
ぼんやりとした頭で、そんな事を思う。
「それでは、仕事に戻ります。
逐一報告に参りますので、貴方様はどうぞごゆっくりお過ごしください」
ああそれから、と、玄関に向かいかけた女が振り返る。
「貴方様の糸が増えてしまいますと作業が滞りますので、終了まではこのお部屋からは出られません。
作業には先程お伝えした通りあと5日ほどかかりますので、必要なものがあればこちらでご用意致します」
それでは、と、軽く頭を下げて、女は玄関へ向かっていった。
それを見送る元気はなく、私はソファに座り直して女が出ていくのを耳で待った。
―――どこから出る気だ。
あの玄関のドアはもう開かない。
少なくとも、作業とやらが終わるまでは開かないのだろう。
それとも何か、あの女ならば普通にドアは開くのか。
振り返ったその先に――――女はもう、いなかった。
・
それから数日、私はほとんど眠っていた。
ここ数年、体験した事のない柔らかな眠りだった。
しがらみというものは、こんなところにも影響を及ぼすのか。
疲れて眠るのではなく、今まで入る事の出来なかった深い場所での眠り。
例えるなら、まだ胎内にいる頃に味わったような、あたたかな場所。
心から安心して眠っていても許される場所。
記憶の奥底に残っていた胎内の記憶が引き出されても、おかしくはないのだろう。
実際、私が今覚えているのは、既に家族の顔くらいのものだった。
友達は、いたのだろうか。
恋人は、いたのだろうか。
誰と何をどう過ごして、何に対して怒って泣いて笑ったのだろうか。
思い出せないのではなく、私はもう、それを知らない。
もう、誰も、知り得ない。
「こんにちは」
ソファで呆けていた私の後ろに、女が立っていた。
どうやらこの女は、私の死角に現れ、死角から消えていくらしい。
一日に数回こうして現れるので、さすがにもう慣れた。
「…どうも」
そっけなく返事をして、女が座るのを待つ。
初めて会った時と同じように、ラグの横にヒールを脱いで、ちょこんと私の前に正座する。
それからファイルを開いて、滞りなく作業が進んでいる事を告げ、必要なものはないかと問うて、また作業に戻っていく。
作業中は、私が「世界」を知る事すら妨害になるらしく、テレビもパソコンも使えなかった。
兎にも角にも、時間の流れが遅い。
しかし、することがない。
そこで思い出したのは、キッチンの上棚で眠っていたティーセットの存在だった。
重なった記憶が剥がされているせいだろう、ゴールデンルールもきっちりと思い出せた。
そしてそれは、暇を持て余す私の日課になった。
家族の記憶がまだ残っているからとはいえ、おかしなものだ。
いちばんのしがらみであろう姉の思い出を、私が日課にしているなんて。
そんな流れで、女に何度か茶葉を頼んだ。
頼んだ手前、一人分の紅茶を淹れるのも気が引けて、毎度現れるたびに勧めてみるのだが、女は断固として口を付けなかった。
保護対象とお茶をしながら歓談など以ての外、なのだそうだ。
それでも私は、二人分の紅茶を毎回淹れた。
多めに淹れたほうが茶葉が良く回るから、もっと美味しくなるんだよ―――
もうすぐ、その言葉も忘れてしまう。
こんな状況だからこそ、覚えているうちに、姉の真似事に興じたかった。
こんなことになったのは、私のせいなのだ。
消えたいと思ったのは、他でもない、私なのだから。
・
「こんにちは」
「…どうも」
型通りの挨拶を済ませ、既に固定となった位置にそれぞれ座る。
「本日で、作業最終日になります」
「…はい」
「全作業が終了しましたらもう一度報告に参ります。
その後は外出等々、以前の様に自由にして頂いて結構です。
建物の場所や重ねられた知識、つまり、日常生活を送るという点においての記憶はしがらみではありませんので、排除の対象にはなっておりません。
その点はご安心ください」
「…わかりました」
いよいよ、だ。
家族すらも、私を忘れる。
私も、家族を忘れる。
あの家に、私は存在しなかった。
母も、離れて暮らす私に気を揉む事もない。
父も、存分に姉の事だけを想える。
私を、見て見ぬ振りをしながら、失望を繰り返す事も、もう、無い。
そして、姉は永遠に、あの家の自慢の一人娘として、惜しまれ、偲ばれ、愛され続けるのだ。
ふと、引っ掛かった。
そんなこと、ありもしないのだけれど。
信じてすらいないのだけれど。
信じ難い出来事が起こっている今、笑い飛ばされても確認するべきかもしれない。
そもそも、この女が笑うところなど想像がつかないが。
「…あの」
「はい、何か」
震える声で、切り出す。
「このしがらみの対象って…生きている人だけ、ですか」
一瞬、沈黙を挟んだ。
即答を常とする筈のこの女が。
何かを迷っているように見えた。
「…場合によります」
言葉を選ぶように、ゆっくりと女は続ける。
「原則的には、ご存命の方のみが対象となります。
貴方様が置かれているような状況のしがらみをお持ちの方もたくさんいらっしゃいますが、亡くなった方は対象になりません。
勿論、ご本人のお心にはしがらみとして巻きついている訳ですから、ご本人の分の糸は切ります」
ですが、と一度、言葉を切る。
「お相手の糸は、我々には切れません」
「え…」
ふう、と大きく息を吐いて、女は私を真っ直ぐに見た。
「解りやすく申し上げます。
貴方から伸びるお姉様への糸は、お姉様のもとへは伸びてはいません。
けれどその代わり、記憶として、心に巻きついています。
これは、どなたも同じです。
亡くなった方への想いや記憶は、ご本人の心に巻きつく事で保存されます。
ですが、今回のように、その糸がもっとも強いしがらみだと判断された場合、排除の対象になります」
「…でも、切れない糸があるってことは、亡くなった方からも…姉からも、糸が伸びているんですよね?」
女は、覚悟を決めたように目を閉じた。
そして、肯定した。
天に召されても、現世に見守りたい存在を遺していれば、その糸はつながったままなのだと。
そして、その存在から糸を切られてしまっても、自分の糸は、切る事ができないと。
見守ると決めた存在が、自分と同じ場所に来るまでは―――見守り続けるしかないのだと。
「それじゃ…それじゃ、私がこのまま姉の事を忘れても、姉はずっと私を見てるしか出来ないって事ですか?
姉なんかいなかったって認識に私がなっても、それでも姉は、私を忘れないって事なんですか?」
女は、俯いたままだった。
少し、震えているようにも見えた。
「あ…ごめんなさい、責めるみたいな事言って…」
悪いのは私なのに。
そう言いかけたとき、遮るように、女がぽつりと言った。
「お茶を」
「え?」
「お茶を、いただけませんか」
俯いたまま、女は、確かにそう言った。
・
居心地の悪い静寂の中、ティーポットとカップを取り出し、湯を沸かす。
女は相変わらず俯いたままだった。
いつの間にか手馴れた動作は、徐々に私を落ち着かせてくれた。
ポットに茶葉を入れ、お湯を注いで、砂時計を返す頃には、先程の会話を整理出来るほどに平静を取り戻していた。
姉が愛おしく見ていた、くるくるとまわる茶葉。
あの頃はわからなかったけれど、今は少しだけわかる。
時の流れが遅くなったような錯覚に陥るこの時間が、姉にとっての癒しだったのだろう。
いつも笑みを絶やさず、皆に優しく在り続ける。
そんなの、無理してた時だってあった筈だ。
それを悟られないように、自分だけの時間を茶葉に預けて、姉は休憩していたのかもしれない。
茶葉が沈みきるまでの時間で、こうして、物思いに耽っていたのかもしれない。
姉が見ていたのは、茶葉ではなくて、自分の時間を見ていたのだ。
愛おしく、愛おしく、きちんと大切にできるように。
「きれいですね」
いつの間にか、女が横で一緒にポットを眺めていた。
初めて見る、やわらかな笑みを浮かべて。
―――こんな顔、するんだ。
瞬時に警戒心が解けてしまう。
ああ、そうか。
だから、だめだったんだ。
つながりを切ってまわる人間が、保護対象とつながっていい筈がない。
切る糸が増えるだけだ。
だから、いつも近寄り難くして、さっさと用件だけ済ませて。
そう、だったんだ。
「砂時計、終わりましたよ」
「え、あ」
すっかり見とれていた自分に気付いて、顔が熱くなる。
「テーブルに、持っていきますから…座っててください」
誤魔化す様に、カップを温めていた湯を捨てる。
女は、いわれた通り、またちょこんと、ラグに正座した。
調子が狂う。
最後の日に、あんな顔見せなくたっていいのに。
結局、忘れてしまうのに。
「どうぞ」
そっと、カップを女の前に置く。
「お砂糖とか、いりますか?」
自分が淹れた紅茶を人に飲ませるなんてどれくらいぶりだろうか。
それこそ、姉が生きていた頃に、教わりながら淹れた記憶しかない。
むしろ欲してくれ、砂糖を。
渋かったりしたら、なんだかいろいろ台無しになる気がする。
「…それじゃあ、角砂糖をふたつ」
ソーサーに添えるつもりで手にしたスプーンが、すり抜けて床へ落ちた。
私は知っている。
この後に続く言葉を、知っている。
「できれば、ブラウンとホワイトをひとつずつ」
偶然で、こんなこと、あるはずがない。
あったとしたら、相当タチの悪い冗談だ。
大きく息を吸い込んで、振り向きながら私は言う。
「ミルクピッチャーなんかウチにはないからね」
「ふふ、ざ~んねん」
甘ったるい声。
腰まで伸びる、ふわふわの髪。
小花柄のワンピース。
両肘をついて、両手の上に顎を乗せて、子供みたいに笑う。
「おねえちゃ…」
口にした瞬間、私の涙腺は壊れたようだった。
・
ひとしきりわんわん泣いて、頭を撫でまわされてまた泣いて、甘い香りで抱きしめられて、さらに泣いた。
何を話せばいいのか、謝ればいいのか、逆にこの数日を責めればいいのか、何もわからなくてひたすら泣いた。
そんな私に、姉も何も言わなかった。
たまに、鼻をすする音だけが聞こえた。
自分で仕掛けといて何泣いてんだ。
そんなところも姉らしくて、まだ泣けた。
すっかり紅茶も冷めた頃、やっと私の涙は止まった。
そしてともかく、事の成り行きを聞くことにした。
姉は、冷めた紅茶を含みながら、ゆっくりと話し出した。
・
「あたしねぇ、成仏できてないんだぁ」
突拍子もないカミングアウトに、思わず紅茶を飲み込み損ねてむせる。
「じょ、成仏できてないって、おねえちゃんそれって…」
「うん。
地縛霊…じゃないか、浮遊霊?
なんか、そんなかんじの」
それはあれですか。
現世に心残りがあってとかいうあれですか。
「あ、そっちが地縛霊だね。
ほら、あたし、ぼーっとしてるから、自分が死んじゃったのわかんなくて。
それで、浮遊霊になっちゃった」
いや、ちゃんとお葬式やったじゃん。
法事だって毎年欠かさずやってんじゃん。
「うん、だからね、その時は実家行ってね、ありがとう~ってみんなに言ってたの。
誰も気付いてくれなかったけど」
他人事のように、からから笑う。
毎年、念仏を唱えていた坊さんへの信頼が一気に崩れた。
今年は他の人に頼もう。
母にそう打診しよう。
何も供養できてませんよ地元のおっちゃん。
「あ、今お坊さんの事わるく思ったでしょう。
誰もって言うのは、親戚とか家族とかの事だよ?
お坊さんは、ちゃんとなんとかしようとしてくれたもの」
前言撤回。
申し訳ありませんお坊さま。
「でもね、だめだったの。
あたしの想いが強すぎたんだって。
みんなのこと心配しすぎて、離れられないんだって」
本来ならば、その強すぎる想いというのは大変に厄介で、自分の意に反して家族に憑いてしまったりするらしいのだが…
姉の場合、というよりも、うちの家族の場合、全員揃いも揃って霊感というものが全く無いらしく、成仏もしていないのに、姉は守護霊のような存在になってしまったそうだ。
「だけどね、いつまでもそういう状態で安定していられないよって、お坊さんに言われてね。
誰かひとりを選んで、そのひとを気が済むまで助けてあげなさいって言われたの。
どんなかたちでもいいからって。
それで、今年のお盆に合わせてちゃんと成仏できるように、離れられる程度に、想いを弱くしてきなさいって」
なんというイレギュラーな幽霊になってんだこの姉は。
「それで、どうすればいいのかな、誰にすればいいのかなって考えてたら…由香の声がきこえたの」
かちゃん、と、姉はカップを置いて続けた。
そして、真顔になって、言った。
「由香が、あたしの事を忘れられなくてつらいなら、忘れていいんだよ」
違う。
忘れられなくてつらいんじゃない。
私がつらいのは。
「わかってる。
だから、あんなお芝居したの。
すごくすごく考えて、だますみたいで迷ったけど、でも」
カップをよけて、姉が私の手をそっと握る。
細い指。
淡いマニキュア。
そして変わらない、あたたかい手。
幽霊なのに。
もういないのに。
でも、ここに、いる。
「あたし、いっぱいちから使ったの。
それで、由香の想い出たくさん取り上げたの。
それを、今から返すから。
もう一回、ぜんぶ思い出して。
ちゃんと見て。
それから、もう一回考えて。
おとうさんのことも、おかあさんのことも、ちゃんと考えて」
言い終わるか終わらないかのうちに、姉の手から、ものすごい勢いで記憶が流れ込んできた。
あまりの勢いに、思わず目をつぶる。
ぜんぶ思い出して。
姉はそう言った。
早回しのフィルムのように、バタバタと音を立てて身体中にめぐっていく。
認識が、できない。
いつのことだとか、ここはどこだとか、そんなのさっぱりわからない。
わかるのは、それが楽しかったとか、悲しかったとか、それだけだった。
まさに、私の中に蓄積していた、24年分のあらゆる『想い』と『つながり』が、隙間無く意識を埋めていく。
こんなにもたくさんのものが、私の中にあったのか。
からっぽの出来損ないだと思っていた、私の中に。
こんなにもたくさんのひとと、つながっていたんだ。
それを、私は、捨てようとしたんだ――――。
「おね…ちゃ…」
流れ込んでくるそれが、今の意識を塞いでいく。
きっとこれが全部流れ込んだら、私の意識は途切れてしまう。
その前に。
最後に。
最期に。
「………」
声にならないまま、全てを流し込まれた私は、もう抗えなかった。
ぼやけた目がかろうじて、姉の笑顔をとらえる。
もう声は聞こえなかったけれど、何かを言ったのはわかった。
うん。
私も。
私もだよ。
『だいすき』――――。
・
病室で目を覚ました私の手を、誰かが握っていた。
「おねえちゃん…?」
「由香!由香、気がついたの!?
お父さん、由香が!!」
手を握ったまま、父を呼んでいる。
姉かと思ったその手は、母の手だった。
自分の状態がさっぱりわからないまま呆けていると、誰かがドタドタと病室に駆け込んでくる音がした。
ベッドの横のカーテンが、一気に開かれる。
「由香!!」
見た事もない、真っ青な顔をした父が、そこにいた。
「あれ…私…なんで…」
聞けば、例の日から丸々一週間、私は眠り続けていたらしい。
出勤してこない私を心配した上司が実家に連絡をいれ、駆けつけた両親が床で倒れている私を見つけたそうだ。
身体に異常は一切なく、慢性的な睡眠不足と、精神的疲労がたたったのだろうと医者には診断された。
念のためにもうしばらく入院をと言われたが、せめて一度帰宅させてくれと頼みこんで、なんとか了承してもらった。
どうしても、戻って確認したい事があった。
入院の手続き諸々で病院に残る母に代わり、アパートまでは父が送ってくれる事になった。
さっきの見たこともない顔は幻だったのかと思うほど、車に乗り込んだ父はいつもの仏頂面だった。
きっとおそらく、アパートまで無言であろう。
私は寝た振りを決め込む事にした。
「由香」
不意に名前を呼ばれて、身体が跳ねる。
「…はい」
おそるおそる、父を見る。
父は前を見たまま、呟くように言った。
「あんまり母さんに心配かけるな」
「ごめんなさい…」
つい、視線をそらす。
ハンドルを握る父の手が目に入った。
…その手は、微かに、震えていた。
・
父をアパート前で待たせたまま、部屋へ急いだ。
一週間振りなはずなのに、まったくそんな気はしない。
夢なら夢で、それでもいい。
でも。
確かめずにはいられなかった。
祈るような気持ちで、テーブルを見る。
そこには確かに、二人分のティーカップが並んでいた。
嬉しさと実感が込み上げる。
私はこの一週間、姉と過ごしたのだ。
このティーカップが、それを証明してくれた。
姉が座っていた側のティーカップを、そっと手に取る。
そして、いつかの言いつけどおり、流しで水に浸す。
カップに茶渋が残るのは、あらゆるカップに失礼だ、という姉の持論に習って。
残ったソーサーも片付けようと手を伸ばして、そこに挟まれたメモに気付く。
心臓が跳ねた。
いや、いくらなんでもやりすぎだろう。
幽霊が置き手紙なんて聞いた事がない。
でも、この可愛らしいメモ用紙を、誰が疑えるというのか。
そこには一行、姉の丸っこい字が並んでいた。
『最後の一滴は格別だったでしょ?』
その年の法事で、いつもの坊さんに満面の笑みを向けられたのは、言うまでもない。
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