職業選択の自由と努力のこと

後だしになってしまうので申し訳ないなと思うのですが、職業選択の自由はその性質上「その職業をなしうる能力があること」という制限がかかります。医学を知らない人は医者にはなれませんし、法を知らない人は弁護士にはなれません。この世界の残酷な側面ですが「風俗業しかできない女性」がもしいれば、その女性は風俗業のみが選択可能な職業となります。もちろん 国家はその国民の自由を保障するために能力習得の機会を設ける義務はあります。それが教育権(の理由の一つ)であり、すべて国民は学校教育のみならず社会教育を受ける権利が保障されます。また民間でも講座などはありますね。つまり、原則的には「もともと才能があるor努力する」ことで能力を身に着ければ身につけるほど選択できる職業の数は増えるはずです。逆に言えば「才能もないし努力もしない女性」がいた場合は自己責任とされますし、それで文句を言っている人は「被害者ぶっている」と言われるでしょう。


 ただ、この世界は「努力さえすれば報われる」という少年漫画のような世界ではないので、努力でどうにもならない事態に陥ることもあります。犯罪被害や災害、事故で障がいをおうこともあるかもしれません。あるいは努力するための環境にアクセス不能であることもあるかもしれません。私はそういった「努力でどうにもしようがない人」のために福祉があると認識しています。

コロナ禍のせいで、努力して手に入れた職を失い明日のご飯のためにお金が今必要な人が、スーツを買い、就職活動をし(しかも同じ状況の人はたくさんおり、倍率は恐ろしく高い!)、「まっとう」な仕事をして給料日を待つ。そんなことが可能でしょうか。あるいは限られたパイである「まっとうな仕事」の椅子に求職者全員が座れるのでしょうか。努力してもなお椅子から転げ落ちた人はどうすればいいのでしょうか。

それを「努力が足りない」と言うのですか。

コロナ禍はその人一人の責任ですか。

自粛して、感染予防に努め、努力して入った会社を首になったのは、全部本人のせいですか。

No man is an island.
人は孤島のようにはなれない

なにもかも自分一人で背負わなくてはいけませんか。

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