エモい資本主義
私は地元のとあるスーパーでアルバイトをしている。
シフトの時間通りに出勤し、制服に着替え、レジに立つ。やってくるお客さんたちの持つ籠の中の野菜や肉についたバーコードを読み取り、お金を受けとり、お釣りを返す。それをひたすら3時間、繰り返す。たまに掃除をしたり、傷んでいたり賞味期限の近づいた商品に割引シールを貼る。
それにしても、なぜ私はこの商品に割引シールを貼っているのだろう。もちろん、会社のルールでそう決まっているからだ。もっと言えば、商品の価値が下がっているからだ。
商品の価値が下がるとは、いったい何だろう。
そんなことを考えながらレジに立っていると、店の前に野菜を満載したバンが停まった。農家さんからの入荷だった。同僚と農家のおじさんが話し始める。
「きのうのキャベツ、あっという間に売れちゃいましたよ。美味しいんでしょうねえ。」
おじさんは誇らしげに笑う。
「そうでしょう!一つ1000円でもよかったと思うんですけどね」
「きっとそれでも売れますよ」
このおじさんはきっと、自分の仕事に誇りを持っているのだろう。
おいしいから、一つ1000円に値上げする。自分の仕事に誇りをこめて。
モノの値段が上がる理由を、私はこれまで「需要が増大するから」、「利益主体が値段を利益向上のために吊り上げる」として認識していた。私にとって利益主体は、顔のない巨大な獣であったし、商品は顔のない誰かにより生み出された物質だった。
そうではなかったのだ。
このおじさんは経済活動として畑という資本に労働力を投下してキャベツをつくり、この街までバンに載せて運び、自信をもって値段をつけた。そしてそれを、私たちが売っている。
とても自然な資本主義のはたらきだった。このキャベツはおいしいから、お客さんは買っていった。そして値段を上げても売れるとおじさんは嬉しそうに語った。当たり前のことだった。そして、手に取れる範囲の出来事だった。それを作る人と、売る人と、買う人がすべて顔を合わせていた。誰一人顔のない存在ではなかった。しかし、その範囲で確かに経済が回っていた。
M.ウェーバーは儲けを神の恩寵ととらえた。完売したキャベツがもたらした利益も、今日値上げして得た利益も、このおじさんの努力の対価だ。一神教を奉じないこの国では、社会からの還元、と言った方が共感しやすいかもしれない。
その当たり前の動きに、なぜか私は感動していた。