見出し画像

光と分子の霧のなか (3)

※ 遠い記憶のお話で、占星術とは関係のない記事です
※ 記載している内容は個人の意見です

F氏と初めて話してから数日後のことである(1話はこちら)。
その日の午後、私は事務作業に集中していた。
確認したところ、F氏はどうやら隣の部署の人間で光学が専門らしい。が、なにしろ根暗で社内事情に疎い私である。それ以上のことは何も分からないのだった。
時々、先日のF氏の言葉をぼんやり反芻してはいても、具体的な行動には結びつかない。私の悪い癖なのだが、情報の整理が追いつかない間は放心状態になってしまうのだ。

終業時刻が近づき順調に仕事を終えようとしていると、私はまたもやF氏から声をかけられた。

小さな声で「18時に会議室に来い」とのこと。
それも、誰にも言わずに来いと。

F氏とのやり取りは初対面から多少の混乱を含んでいたが、いよいよ訳が分からないままに時間は18時になり、私は言われた通り静かに会議室に向かった。

呼ばれた会議室は普段あまり使わない部屋で、新入りらしく恐る恐るドアを開くと、そこには二人の人間がいた。F氏と、そしてその隣にもう一人。静かに佇むこの男性(T氏)も、やはり私が会ったことのない人物だった。
それが、私がのちに多くを学ぶことになる師との出会いだった。

T氏は言葉数の少ない人で、抑揚のない声で話す。ゆっくりとしたテンポがあり、幼い頃はさぞかし運動が苦手だったに違いない、と思わず考えてしまうような、静かで特徴的な歩き方をしていた。しかし50代という年齢に反して彼の笑顔や行動はまるで少年のようで皆にも慕われ、傍目に見ると人を和やかな気持ちにさせる魅力を持った人だった。(彼の秘められた内面は真逆であることがのちにわかる)

自己紹介の代わりに、と彼が思ったかは定かでないが、後日T氏はこれまでに書いたらしいいくつかの論文を私に見せてくれた。その時私は、F氏がなぜ自分とT氏を引き合わせてくれたのかが少し理解できたような気がした。かつて流体解析が専門だった彼の興味は、時を経て、徐々にナノ材料へと近づいてきているようだった。

私が学んだ物性物理学の分野では理論モデルを用いて材料本来の性質を考察したりするのだが、こうした抽象的な話は私の周囲ですこぶるウケが悪かった。入社早々にそんな経験をしたこともあって、鉄鋼臭漂うこの場所で材料特性の数理的本質に興味を持つ人間はごく限られているらしいということは私も知っていたのだ。だから「面白い」とつぶやき何やら考え事をし始める彼を見て、まるで旅行先で仲良くなった人が自分の家からほど近い場所に住んでいることが突然に判明したような、不思議な親近感を覚えた。

一見何の関係もないように見えるT氏とF氏は同じ理想を掲げて活動しているらしく、理論や数理的アプローチに立脚したシーズ開発の可能性を追求する、研究所内でもごく少数派の立場を固く貫いていたようだ。
そしてその微妙な立ち位置ゆえに、彼らの活動はグレーな部分を常に含んでいたのだった。


いいなと思ったら応援しよう!