ろくちゃんの気持ちに触れられてしあわせになった話
AQに五五五ろく(ごごもりろく)というメンバーがいる。
彼女が最近始めたnoteがこれ。
そこではうまく言語化できなくて人に誤解されたり、意図せず傷つけてしまうことのつらさを吐露していた。
私は、それに対する返信の感覚で上のnoteを書いた。
その次に彼女は優しさに関するnoteを更新した。
これもまた、私は返信感覚で下のnoteを書いた。
この2つの記事の間にろくちゃんにnoteを見たよっていう話から「ちゃんとしなくていいんじゃない?」とか「そのままでいいんじゃない?」とかいう話をした。
なんというか、会話ってテンポがあるし、その一瞬で思いついて喋らないと伝わないってなると格段にハードルが上がるし、noteでこれだけ彼女が言語化できているのなら、「言語化の能力が足りない」と彼女に対して全く思わなかったし。
その会話の最中に、彼女は「のいちゃんに伝えたいことがある」ってたどたどしくも色々な話をしてくれて最後に「もっと言いたいことがあるのに!悔しい!次はメモしてきて話す!」って約束してくれた。
2つ目の記事を更新した際、ろくちゃんからいいねがきて、その日はライブだったから彼女の特典会に行くと持ってきたメモを見せてくれた。
その際に「言語化のこと、みんなは『言葉にするの頑張ろう』って言ってくれるけど『そのままでいい』って言われたの初めてだったから嬉しかった。」と喜びながら話してくれて、その一言が一番嬉しかった。
私は思う。
その人が困ったり、うまくいかないことの"全て"を「自分が変わる」ことで対処するのはなーんか違うんじゃないの、って。
自分が変わらなくたっていい部分もあるんじゃないの、って。
人に「変わりなよ」って思ったり押し付けるのってそこまでのその人の部分的なものを否定してるように思えて、あらゆる可能性を考えたうえでその結論に行くのならまだしも、最初から「変わる」を結論にするの無理があるんじゃない?って思う。
自分を変えるのってかなり根性も行動も、とにかくコストを必要とするから、最低限のコストで済むのならそっちのがよくない?
私は、真っ先にそっちの道を検討する。
それでもダメなら別の方法を試す。
心配することは相手のことを信じてないことと同義のようなものだと思ってて、私はnoteでは
と書いた。
うまく出来なくてもそんな自分まで拒絶せず、信じてみたらいい。
不安や心配は、ネガティブな結果を回避するうえで必要かもしれないけど、そこで自分を否定して「はい終わり」だと、それはもはやその人にとって不安と心配は敵だし不信そのものでしょ、って。
あなたはあなたのままでいい。
私はそう思うからそう言う。
ろくちゃんから「のいちゃんはいいヤツ!」「好きなアニメに『いいヤツになれ』ってセリフがあって好き。のいちゃんにもオススメ。」と言われてそれもすごく嬉しかった。
会話の内容全部は文字に起こせないけど、ろくちゃんと喋ってて「もう、その感受性も発言もメモにしてくるという誠実な行動も100点満点中1億点じゃん!」と思った。
人に真っ正面から向き合える子というのが感じられただけでも、めちゃくちゃ収穫と思った。
私は、そういう人間が一番大好きなんだ。
自分の良さって自分で気付けないから他人が必要となる。
お互いにとって、そういう存在であれたらいいなってめっちゃ思った。
ろくちゃんはいいヤツだぜ。