写仏部員の墓参り:都内某所(お寺づきあいのモヤモヤについて)
(約1,500字。お金の話です)
先日のあやのん先輩の記事の中で、無名の神社の存続は大変そう、というお話がありました。
考えてみると、神社にお金を納める機会はそう多くはないかもしれません。私の場合だと、初詣や、観光地で参拝する際のお賽銭くらい。あとは厄除けのお祓いをしてもらった時に初穂料を納めた程度。
それに対し、お寺に対しては結構包んでいるよなあ、というのが実感です。
うちは、都内のお寺にお墓があるのですが、長男の家なのでお寺には何かと関わりがあります。お仏壇のない家で育った私は、1年を通してずいぶんいろんな行事やしきたりがあるんだなと嫁いできて思いました。
毎月の命日のお墓参りに年2回のお彼岸、お盆(読経に来る)に餓鬼供養(塔婆の申し込み書が振込用紙とともに郵送されてくる)、盆暮にはお寺にご挨拶に(お墓の管理料のお支払いと、お布施とは別の付け届け)。
家族の誰かが亡くなればお通夜告別式納骨。一周忌に3回忌、7回忌…と法事でもお寺のお世話になります。その都度お布施を包みます。お布施は本来決まった金額はないそうですが、うちの菩提寺の場合はご住職の言い値です。相場よりかなりお高めのようです(檀家統一価格なのか、気の弱そうな夫だけふっかけられているのかよくわからない)。
なんかもう、うちの菩提寺に関して言えばサービス業みたいなものだなとぶっちゃけ思います。否、サービス業なら業者を選べますが、事実上そこ一択。選ぶ余地はありません。
ともあれ、うちの菩提寺はなかなかの経営努力をしているようで、当面は安泰そうです(ご住職一家はみなふくよかでいらっしゃいます)。
そのようなお寺との付き合い方は夫の実家が決めたことであるので、外から嫁に来た私は余計な口出しはいたしません。しきたり通りにするだけです。
もし、私一人の話であるならば、こうした宗教法人とはかかわりなく一生を終えたいです。お墓も要りません。子供がいないので管理する人がいないという事情もありますが、仮に子供がいたとしても自分の死後のことで煩わせたくはありません。私が死んだらなるべく早く燃やして、残った骨は肥料にでもしてください。別に葬らなくていいです、土に還れれば。
世の中そういう人ばかりになったら多くお寺が廃れ、お寺の下請け的な仕事(仏具店、石材店、生花店etc)も衰退するでしょう。
実際、コロナ禍以降、葬儀というものを大々的には行わなくなってきていると聞きます。昔は親戚中が集まり、勤め先やら子供の学校の同級生やら近所の人やらが大勢葬儀に来たものです。でもこの頃は葬儀をするにしても家族だけとか、葬儀すらせず火葬場に直送といったケースも増えています(そういえば、この頃お葬式に呼ばれることもなくなりました)。
弔事で稼げなければ、他に売り(すごい文化財を持っているとか、住職の説話が面白いとか)のないお寺は苦しいだろうと思います。
先日久しぶりにお墓参りに行きました。
うちの区画は墓地の端の方にあるのですが、そのそばに「お墓の墓場」とでもいういうべき一角があります。使用済みの墓石などが無造作に並べられているのです。
墓じまいをしたのか、別の理由でお寺との縁が切れてしまったのか。管理料の入らなくなった区画はどんどん更地にされていきます。都内の割と便利な場所なのでじきに買い手はつくでしょう。
お参りを終えると、「墓の墓場」の石像と目が合いました。どこかのお墓にあったものでしょうか(たまに墓石とともに石像が置かれている区画があります)。いずれは産業廃棄物?として片付けられてしまうのだと思うと、なんだか哀れな感じがします。
今日は供養のためにその石像を写仏しようと思います。
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