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【読書メモ】『赤毛のアン』再読中②誰の翻訳で読む?

村岡花子訳

 たまたま近くの図書館にあった、という縁で私はポプラ社刊の単行本で『赤毛のアン』のシリーズを読んでいました。
 翻訳者は村岡花子。日本で初めて『赤毛のアン』を訳した人です。第二次世界大戦中に少しずつ翻訳したものが1952年に三笠書房から単行本で出版されたのが最初です。その後新潮文庫に入りました。

 この村岡訳、実は全文が翻訳されていなかったことがわかりました。

 そのことを松本侑子著『赤毛のアン論 八つの扉』(文春新書、2024年)を読んで知りました。

 松本侑子は、『赤毛のアン』のシリーズ8巻を翻訳した作家です(文春文庫から出ています)。

 松本侑子によると、かつての邦訳小説は必ずしも全文訳ではなく抄訳や翻案が一般的で、文芸翻訳が正確な全文訳が基本になったのは1980年代以降だといいます。
 また、聖書由来の言葉など当時の日本人には理解しづらいことが村岡訳では省かれていたというのです。
 他にも『アン』の邦訳は多数出たものの、村岡訳を踏襲したわかりやすい抄訳と改変版であり、こうしたものが日本における『アン』人気を支えた面がある、と松本侑子は述べています。

 一方、村岡花子訳の魅力について、松本侑子は次のように書いています。 

 村岡花子訳『赤毛のアン』の発行は、昭和27年(1952)です。訳文には明治生まれの文筆家ならではの古風な言葉遣いが、会話部分には古き良き時代の品のよさがあり、全体の快いリズム、馥郁として朗らかな文体が、読書の歓びに誘います。

松本侑子『赤毛のアン論 八つの扉』より


 村岡訳を読んで、私もその通りだと思います。村岡花子の文章の流れの良さや文体が私は好きです。

 2008年に新潮文庫版が改訂された際、村岡花子の孫である村岡美枝によって補訳が行われました。改訂後に発行された新潮文庫版は完訳と思って良さそうです。
 私が読んでいるポプラ社の単行本は村岡訳ですけれど、2008年に補訳される前に発行されているので全文訳ではない、ということになります。

松本侑子訳

 松本侑子は、1993年に『赤毛のアン』の全文訳を集英社から刊行しています(『赤毛のアン』の全文訳としてはこれが日本初です)が、第3巻まで出たところで出版社の都合により打ち切られます。
 その後松本侑子は集英社の3冊を全面的に改稿し、第4巻以降を新訳。『アン』の長編小説8巻の翻訳を文春文庫から出しています(2019年〜2023年)。

 実は、『赤毛のアン論』を読んで松本訳に興味を覚え、全8巻買いました。区立図書館でも借りられるのですが、これは持っていてもいいかなと思いまして。
 その大きな理由は、原文に忠実とされる訳文と巻末の訳注です。
 この訳注が、結構面白いのです。
 例えば、アンの友達となるダイアナの名前について。

マシューが「異教徒のように聞こえる」名前だと言うのは、ローマ神話の月の女神ダイアナに由来するから。ローマ神話という多神教は、一神教のキリスト教とって異教。マシューがジェーンとかメアリはおしとやかと言う理由は、ジェーンJaneは十二使徒ヨハネの英語名ジョンJohnの女性形ジョアンJoanから派生、メアリMaryは聖母マリアMariaの英語名で信心深い印象があるから。

『赤毛のアン』訳注部分より

 といったぐあい。
 そういえば、今のイギリス国王の前の妃もダイアナという名前でしたけども。キリスト教に馴染みが薄い私にとって、ダイアナという名前に違和感を持つというのはなかなかピンと来ない話です。
 また、聖書や英文学から引用された言葉が物語とどう関わってくるのか丁寧に解説してあるのも面白いです。
 そんな「へえ」という知識満載の註が本に占めるボリュームはかなりなものです。

付箋から後は註とあとがき(解説)
なかなかのボリューム


 こういったことを知らなくても、『赤毛のアン』を読むには全然差し支えありません。でも、知っていると物語の背景を理解するのに役立ちますし、読書の味わいも深くなります。

 本文を読みながら巻末の註を見たり戻ったりするのは少し面倒かと思ったのですが、私は村岡訳で一度読んで内容がわかっているせいかそれほど煩瑣には感じません。「この言葉にはそういう意味も込められていたのか〜」とわかるのは楽しいです。松本訳は読み始めたばかりなのですが、暇をみて少しずつ読み進めたいと思います。

掛川恭子訳

 もう1人、翻訳家の掛川恭子(やすこ)が『アン』のシリーズを完訳しています。児童書を数多く訳してきた人のようです。
 1999年に『赤毛のアン』第1作が講談社から単行本で刊行されたのをはじめとして、「完訳クラシック 赤毛のアン」シリーズが全10巻出ており、後に文庫化されています(講談社文庫)。
 私は掛川訳は読んだことがないのですが、noteで交流のあるあやのんさんは掛川訳で読んでおり、感想文もお書きになっています。

 あやのんさんはこの記事の中で、"a kindred spirit”という語について、掛川訳では「あいよぶ魂」と訳されていることに注目しています(唸るような素敵な表現、と述べているのです)。こういった語感が掛川訳の魅力なのでしょうか。機会があれば掛川訳も読んでみたいです。


 なお、英語がスラスラ読める、という方は(私は読めません)、原文で読んでみるのもいいかもしれません。例えばこんなのが無料でダウンロードできるようです。ご参考まで。


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