土井、踊ったってよ。
人が輝く瞬間とはいつだろうか。親の愛情を密に受けた幼少期か、華の17歳と謳われる高校生か。はたまたまだ見ぬ未来にその瞬間はやってくるのだろうか。
私は祭りなんか大っ嫌いだった。物価がありえないくらい高いし、楽し気な人たちの羽目を外した行動をみてむかつくし、そもそも人が多すぎて頭が痛くなる。だから自分が祭りに関わることなんてないと決めつけていた。
YOSAKOIソーラン祭り。大学生になって出会うまでは正直好きではなかった。踊り子はギラギラしていて怖いし、主人公気取りで傍若無人な態度が鼻につく(会ったこともないのにそう思っていた)。
だがミーハーな私は「大学生だけ」に弱かった。大学入学に浮足立っていた自分の手元にポンとYOSAKOIソーラン祭り学生実行委員会のパンフレットが差し出された。「学生」と称しているだけあって大学生しか入会できない、と説明されたとき、そんな今しかできないこと、やるしかない、もう走り出していた。
あれから5年後。奇跡的に社会人としてお給料を頂けるようになった私は、なぜかあの最悪なイメージがあった踊り子になってしまった。そもそも、好き嫌い以前に運動神経という神経を生まれた時子宮に置いてきた私が踊れるはずもない。しかし、私は食わず嫌いが許せなかった。ひょっとしたらできるかもしれない、できなかったら全速力で逃げよう。そう思って「YOSAKOI」という文化にもう一度触れることになった。
実際、びっくりした。自分の踊れなさと周囲のレベルの高さに。ターン、左右振りの違い、体の身のこなし。全てにおいて、初めての動きに白旗を挙げた。誰だよひょっとしたらできるかもしれないって言ったやつ。自分自身を恨みながらも刻々と本番までのカウントダウンは迫っていた。
私は「人生何とかなる」という言葉をモットーの一つに生きている。今回もそのモットーの元ギリギリだが習得できたのだ。だから食わず嫌いはしない。為せば成る、為さねばならぬ何事もは本当だなとまたしても実感した。
YOSAKOIソーラン祭り本番。今まで学生実行委員会として支えてきたステージ。あまりの輝きに目があかなかった。あれ、こんなに人間って輝くの?と胸が高鳴った。人生で輝く瞬間があるとするならば、確実に今だろう。嫌いだったYOSAKOIが突如として尊いものに変わった。主人公気取り、それでいいじゃないか。今まで「自分なんか」と主人公になることを拒んできたが、人は誰もが主人公なのだと踊りを通じ背中を押された。
チームの仲間と仲良くなれない。絶対そう思っていた。学生時代に出会った踊り子は絶対私のこと下に見てるなという卑屈精神でいたからだ。確かに全員とは分かり合えない。だが、徐々に笑いあい汗を流し、時には涙を流す中で一体感が温かく包み込んでいた。そして主人公でいていい、と気づけたことで卑屈精神が払拭され、最近では多種多様なメンバーと会話を楽しめるようになってきた。
YOSAKOIソーランを通じて得られた肯定感と縁。なぜ祭りという文化がこんなにも蔓延っているのか。その理由が今回の経験を通じ分かった気がする。