小説【再会(15)】 10年前のことはこの日のために
(15)10年前のことはこの日のために
「たくちゃん、その服なんとかならない?」
「え?どうして」
「だって、みんなが私たちを見ているけど、どうしてだかわかる?」
そうなんだ。通り過ぎる人の多くが僕たちを見て行く。亜紀も気づいていたのだ。スーツ姿の僕とキャップをかぶってカジュアルな服を着ている亜紀。誰が見ても僕たち二人はアンバランスな服装。僕たちを見ている人にとっては、パジャマ姿で結婚式に出席しているのと同じくらいアンバランスに見えるのだろう。僕はスーツを入れて持ってきたガーメントバッグをずっと持っていた。
「亜紀、俺、着替えてくるからこのバッグ、持っていてくれるかな」
そう言いながら、亜紀に小説原稿を入れていたビジネスバッグを手渡した。少し亜紀の手に触れた。それだけでドキッとした。10年前は手を繋ぐのが普通だったのに、これも時の流れの中で変わってしまったのだろう。
学士会館のトイレでスーツからジーパン、トレーナ姿に着替えた。ちょっと寒さを感じたので、持ってきていた薄手のダウンジャケットをトレーナーの上から着た。着なれないスーツから普段の姿になり、体が浮くほど軽く感じた。
「亜紀、着替えて着たよ」
「あ、夜行バスの時の衣装だ」
「衣装ってなんだよ。これなら二人で歩いていても誰にもジロジロと見られないだろう」
でも、この姿で小説原稿を入れていたビジネスバッグを持つと、やはりアンバランスだ。そのビジネスバッグを亜紀は見つめていた。どうして、スーツ姿でビジネスバッグを持って僕が東京に来ているのか、亜紀は聞きたそうだった。でも、それを飲み込むようにして話し出した。
「まぁ、いいんじゃない」
亜紀のこの言い方も学生の時と変わっていない。
「たくちゃん、お腹が空いてこない?」
「お腹がなりそうなほど空いているよ。昼飯を食べに行こう。どこに行きたい?」
僕は「何を食べたい?」と聞こうとしたのに「どこに行きたい?」と亜紀に聞いていた。心の奥で亜紀との思い出の場所に行きたかったのかもしれない。亜紀はそれに気づいたのか、行きたい場所を考えていた。本当は、この学士会館で亜紀の誕生日をした場所で食べたかった。でも、今はそれができるほどお財布が厚くない。
「たくちゃん、ブラブラ歩いて探そう」
亜紀の言葉は弾んでは聞こえなかった。何かを考えているようだった。
「駅の方に向かえば、いろいろあるから、歩きながら探そうか」
僕はそれしか言えなかった。学士会館から神保町駅の方へ二人で歩いた。目に見える全てのものが亜紀との思い出の景色だ。
「たくちゃんと地下道の出口を使って遊んだこと覚えている?」
「忘れないよ。亜紀が迷子になって泣きながら電話して来たこともね」
「そんなことを覚えているの?」
「実は、あの時、俺も迷子になっていたんだよ。亜紀は通っている大学の近くだからまさか迷子になるとは思わなかったからね」
「だって……、寂しかったから」
亜紀は小さな声で呟いた。
「この辺りに、さくら通りとか、すずらん通りっていう道がなかったかな?」
「そうそう、あの時、たくちゃんは聞いたよね。『さくら通りって桜があって、すずらん通りって鈴蘭が咲いているのかな?』って。行ってみようか。その通りに」
僕は左にいる亜紀と自然と手を繋いでいた。小走りですずらん通り方面へ向かった。
「私、行きたいお店あった」
「どこだよ」
「たくちゃんは限定品や発祥の地って弱かったよね」
クスッと笑いながら亜紀が言った。
「発祥のお店に行こう。どこだかわかる?」
僕はすぐに思い出した。そのお店に行った時も高級的な感じで緊張して入ったことを。入り口でどちらが先に入るかとか、入って高くて僕たちに食べられそうになかったらすぐに出てこようとか、でも僕が「発祥」という言葉に弱いことを知って亜紀はその店に入ろうとした。
今、起きていることが10年前と同じように感じた。いや、今起きていることは10年前に戻って起きていることなのかもしれない。
「わかった。中華だね。お店の名前は、えーと」
「思い出さなくても場所はちゃんと覚えているから大丈夫」
僕たちは少し早く走り出していた。握り合っていた手に汗をかいているのがわかった。
「あった。このお店だ」
亜紀の弾んだ声がすずらん通りに響いた。どこから見ても中華料理店とわかる真っ赤に塗られている入り口だった。その前に僕たちは立った。亜紀の手が僕の手を強く握ったのがわかった。入り口には「揚子江菜館」と書かれてあった。間違いなくこのお店だ。
亜紀が僕の背中を押した。これも10年前と同じだ。僕に先に入ってという合図だ。
「いらっしゃいませ。お二人ですか」
「はい」
店員の方は僕たちの顔をじっと見た後に、店内を見渡し、座るテーブルを伝えた。
「奥のテーブルにどうぞ」
店内には丸テーブルと四角いテーブルがあった。僕たちが勧められたテーブルは四角いテーブル、しかも10年前と同じテーブルだった。亜紀と目を合わせた。僕たちの心が10年前に戻ったと思った瞬間から、空気も見えるものも全てが10年前と同じになっていた。亜紀が僕を壁側に座るように目で合図をした。そうだ、あの時も僕が奥に座ったのだ。
メニューを広げた。このお店は亜紀が見ていた雑誌に「冷やし中華発祥の店」と紹介されていたのだ。亜紀は「発祥」という文字だけで、僕をここに連れて来てくれたのだ。
「たくちゃんは冷やし中華?」
「今は3月だろ。今日は他のものを食べるよ」
「今日はいいの?冷やし中華、聞いてみる?」
ふと会話が止まった。お互いに「今日は」という言葉を出していた。10年ぶりの再会なのに昨日のように思い出していたのだ。亜紀もそのことに気づき、くすっと笑った。
亜紀が冷やし中華を進めるのは10年前にこの席で一緒に食べた時と同じものにしたかったのかもしれない。僕は戸惑っていた。このまま10年前に戻りたい。でも亜紀は結婚をして子供もいる。10年前と同じにはできないだろうと。
「俺は、これにする。上海焼きそばね」
「たくちゃん、すごいのを選んだね。それって、作家の池波正太郎さんも食べていたらしいよ。さすがだね。たくちゃんは珍しいものをいつも選んでいたからね。野生の感かな。じゃ、私も同じのにするね」
「そうなの、どうして知っているの?」
「だって10年前に調べたもの。あ、言っちゃった」
亜紀は照れるように舌をちょこっと出し、話を止めた。そうだったのか。雑誌で冷やし中華発祥の店と紹介され、この店に連れてきてくれた亜紀。でもこの店のことをいろいろ調べていたんだ。
「亜紀、ありがとう」
僕は思わず言葉に出していた。
「たくちゃん、ありがとう」
亜紀も僕に言葉を返した。どうして今、亜紀が僕にありがとうと言うのだ。
「亜紀どうしたの?」
「だって、10年前に言えなかった『ありがとう』を今、言ったの」
「何のこと?」
「私のために、たくちゃんは授業が終わってからたこ焼き屋に行って、汗を流して、いっぱいたこ焼きを焼いて、閉店まで働いて、私のためにバイトしていたんだよね」
亜紀の目が赤くなっていた。店員さんが来た。二人の会話中に声をかけることが申し訳なさそうに小さな声で僕たちの顔を覗き込みながら注文を聞いた。
「お決まりですか?え、どうかしましたか?」
亜紀の目があまりにも真っ赤だったので店員さんがびっくりしたのだ。
「上海焼きそばを2つお願いします」
僕は、慌てて、早口で店員に注文した。店員さんは注文を聞くと、すぐに向きを変えた。「お飲物は?」と聞くこともできないほど、その場にいてはいけない雰囲気を感じたのだろう。向きを変えてから立ち止まり注文用紙に「上海焼きそば 2」と書いているようだった。
「亜紀、知っていたのか。やっぱりあの時、偶然にたこ焼き屋に来たんじゃないんだな」
「うん、なかなか会えなかったし、友達から『たくちゃんに似ている人が毎日遅くまでたこ焼きを焼いているよ』って聞いて、それで、私、ドキドキしながらもお店に行ったの。遠くから見ていたんだけど、声が聞きたくなって、偶然通りかかったふりをして。たくちゃん、私のために、10年前のことだけど、10年分のありがとうって言わせてね」
僕は周りのものが何も見えなくなった。今、この世界には亜紀と二人しかいないと思った。言葉が出なかった。亜紀は10年間、ずっとこのことを心の奥で思っていたのだろうか。たこ焼き屋のバイト代で買った亜紀への誕生日プレゼントは、今はどこにあるのだろうか。亜紀が「一生、このネックレスは付けているからね」と言ってくれたネックレス。でも今は、亜紀の「10年分のありがとう」が嬉しい。
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