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【短編小説】桜の樹の下で 第11章 (全12章)

 第11章 10年前の店員さん

 「たくちゃん」

 亜紀がゆっくりと話し始めた。

「卒業してからどうしていたの?」
「地元の教員採用試験を受けたけど、受からなくて。それで実家の本屋で働いているよ」
「今も?」
「そうだよ」
「ずっと?」
「うん、ずっと」
「そう」

 亜紀は言葉を止めた。学生時代に教員になるか作家になるか迷っていたことも亜紀にだけは話していたが、亜紀はそのことは聞かなかった。お互いに聞きたいことがたくさんあるのに、どう切り出していいのかがわからなかったのだ。

 分かってはいるが亜紀の口から「結婚した」という言葉を聞くことが怖かった。聞かずに10年前に戻っている僕でいたかった。

「たくちゃん、いろいろ私、思い出しちゃった」
「俺もだよ」
「この席で、こうして一緒に食べたよね。あの時は、私もたくちゃんも東京を歩くだけでワクワクしていたよね。どこに行っても新しい発見があるんだもの」
「古本屋も回ったよな。古本じゃないよね。貴重な古書ばかりで、見ているだけでも楽しかった。また行きたいね」
「うん、また行きたい」

 思わず「また行きたいね」という言葉が出ていた。本当にいけるのか、また会えるのかさえわからないのに、亜紀は自然に返事をした。

 テーブルには、上海焼きそばが置かれた。

「お飲み物は何にしますか?」

 店員は、注文の時に聞けなかったことを聞いてきた。亜紀が泣いていたのを知っていたかのようにその言葉はとても優しい声だった。

「お水でいいです」

 さっと返事をした亜紀の目はもう赤くはなかった。手を合わせ「いただきます」という亜紀。これも10年前と同じだ。きっと亜紀の子供も手を合わせて「いただきます」をしているのだろう。亜紀が台所に立って、家族の食事を作っている姿。家族揃ってテーブルにつき、みんなで手を合わせて「いただきます」をしている姿。僕の頭の中は亜紀の家庭での姿を想像していた。

「たくちゃん、食べないの?お腹空いてないの?」

 覗き込むように亜紀は聞いてきた。はっと目の前の亜紀を見た。亜紀が台所に立っている姿は目の前にいる亜紀からは想像できなかった。いや、きっと僕の中で亜紀の家庭での姿を想像するというシステムが無意識のうちにストップしたのだろう。

「お腹空いているよ。食べよう」
「何を考えていたの? そうそう、それでたくちゃんは、これからどうするの?家の本屋さんを継ぐの?それとも作家になるの?」

 亜紀はこの10年間のこと、そしてこれからのことをどんどん聞いてくる。僕はこうして聞くことができる亜紀が羨ましかった。

「夜行バスで東京に来るし、しかもスーツ姿でビジネスバッグを持って神保町を歩いているしね。東京で仕事をしているのかと思ったけど……」
「東京で仕事もいいかもな」

 僕は小説原稿を出版社に届けたが、初めて書いた小説だけに、それが採用される可能性は低い。「作家になりたい」という夢を今は亜紀に語れなかった。僕の思いを察知したのか亜紀は話を変えた。

「上海焼きそばって美味しいね」

 亜紀は無邪気に上海焼きそばを食べていた。それは「あえて」無邪気なふりをしているようにも見えた。目は何かを考えているように感じた。学生時代の亜紀は、全身で無邪気さを出していたが、今、目の前にいる亜紀は違った。

 亜紀はこの10年で何があったのかを聞きたいのに聞くことが怖い。でも、このまま今日を終わらすことはきっと悔いが残る。

「たくちゃん、また考えているでしょう。どうしたの」
「ごめん。なんでもない。亜紀は今、何をしているの?」

 ドキドキしていたが、ぽろっと口から言葉が出た。亜紀は上海焼きそばを口に持っていく途中だった。僕の話が聞こえなかったふりをして、焼きそばを口に運んだ。今までの会話の声の大きさからすれば、間違いなく聞こえているはずなのに、亜紀は答えなかった。

「たくちゃん、食べ終えたらどこに行く?」

 僕は亜紀への質問を忘れることにした。聞いて欲しくないのか、それとも今は10年前のままでいたいのか、それはわからなかった。

「亜紀はどこに行きたい?」
「まだ、桜は早いよね。でも千鳥ケ淵の公園に行ってみたい」
「よっし、千鳥ケ淵へ行ってみよう」

 亜紀はジーパンの右後ろポケットからスマホを取り出し、テーブルの上においた。そして調べ始めた。右手の人差し指の動きの速さからスマホを使い慣れているのがわかった。

「たくちゃん、ここから歩いても30分くらいだよ。歩いて行こうか」
「道はわかるの?」
「これさえあればどこにでもいけるよ。10年前にもいけるかも」

 亜紀は笑いながら言うが、その言葉に僕はドキドキした。亜紀の言葉は冗談なのか本気なのかよくわからないことがある。それは10年前もそうだった。冗談のように聞こえて、本気で言っていることが多かった。

 レジで会計を済まそうとした時、僕たちを10年前と同じ奥のテーブルに案内した方がレジのところにきた。


「お元気でしたか?」

 レジの女性が突然話しかけてきた。亜紀と2人で顔を見合わせた。お互いに思い出そうとしてもなかなか思い出せなかった。

「もう10年ほど前でしょうか。あの時、奥様が忘れ物をしたと泣きながらこのお店に戻ってこられましたよね」

 2人は顔を見合わせて笑い出した。そうだった。このお店で冷やし中華を食べて、その時、亜紀がつけていた誕生日プレゼントのネックレスが中華麺についちゃうといって、外してテーブルの上に置いて食べたのだ。そのまま僕たちは話に夢中になって、お店を出てしまった。しばらくしてネックレスがないことに気がついた亜紀は、落としたのかもしれないと歩いてきた道を泣きながら下を向いて探したんだ。そしてこのお店まで戻ったのだ。

「あの時の奥さんの顔は忘れませんよ」

 笑いながら話すレジの女性に僕たちも笑い出した。ここでも僕たちは夫婦に見られていたのだが、それを否定もしなかった。

「たくちゃん、いっぱい思い出ありすぎて、もう頭から溢れちゃっているよ」
「俺もだよ。亜紀、あの時のネックレスはどうしたんだ」
「え、内緒、内緒。私についてきて。このスマホの示す通りに歩けば千鳥ケ淵につくから」

 さりげなく聞いたが、亜紀は話をすり替えてしまった。この亜紀の話のすり替えは驚くことではなかった。学生時代にもよくあり、それで喧嘩もしたが、今は懐かしく感じる。

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