小説【再会(12)】 時計はゆっくりと戻り始めた
(12)時計はゆっくりと戻り始めた
そのブロンズ像は僕の目の前にある幅10メートル以上の道路の向こうにある。信号待ちをしていると茶色のキャップが動いた。垣根のところに座っていた亜紀が立ち上がったらしい。信号の色はまだ赤のままだった。亜紀は気づかないと思いながらも僕は手を振った。その時、亜紀が振り向き、僕をじっと見た。僕だと気づくと両手を上げて、飛び上がるように手を振った。30歳とは思えぬほど、周りも気にせず大きく手を振っている。
亜紀と二人で会うのは大学を卒業してから初めてのことだった。信号がかわると僕は走って亜紀のいるブロンズ像のところに行った。亜紀は薄手の白いセーターにジーパン姿だった。その上から長めの茶系コートを着ていた。真っ白のスニーカーを履いている姿は、まだ学生のように見えた。
「びっくりしたよ」
いきなり亜紀が話し出した。
「どうしたんだ?」
「だって、道路の向こうでスーツ姿の男性が私をじっと見て手を振っていたんだもの。まさか、たくちゃんだとはね。今朝はジーパンだったよね」
「そう、夜行バスを降りて着替えたんだ」
いろいろなことを話したかった。亜紀も同じようだ。それは亜紀の喋り方が早口になっていたことでもわかった。
「亜紀は学生の時と変わらず、茶系が好きだな」
「茶色じゃないよ。ブラウンだって」
亜紀も学生時代の話を思い出しているようだった。亜紀と夜行バスで会ってからずっと気になっていることがあった。子供がいるということは結婚をしているのだろう。でも、とてもそうとは思えなかった。はしゃぎ回る学生の時の亜紀のままだった。何かわからぬ違和感を感じていた。
「たくちゃん、ここ覚えている?」
「あ、ここで写真を撮ったよな」
「そうそう、たくちゃんがブロンズ像に並んで撮るって背伸びしたり、頬を膨らませて顔を野球のボールみたいにしたりしていたよね」
「そんなことしていたかな?」
僕は、その時のことを覚えていた。亜紀は茶系で大きめのカーディガンを着ていたこと、靴は今日と同じ白いスニーカーだったこと、今まですっかり忘れていたことなのに、こんなに鮮明に思い出している自分が不思議だった。それでも、素直に「覚えている」とは言えなかった。
「白いスニーカー、今でも好きなんだよ。ほら、見て。今日も白いスニーカーだよ」
亜紀もあの日の服装を覚えていたのだろうか。あえて、今日、白いスニーカーを履いてきて、この場所で待っていたことを考えれば、亜紀も心の中にある思い出の缶詰を開け始めていたのかもしれない。
「たくちゃん、覚えていないのなら、証拠の写真、探してこようか。実家にあるはずだから」
小さなことにムキになるのも学生時代の亜紀と全く変わっていなかった。
「そんな写真をまだ持っているのか?」
「もちろんよ。実家の内緒の場所にね」
嬉しいような恥ずかしいような気になった。僕も亜紀との思い出の写真や出かけた場所のパンフレット、チケットなどを箱に詰めて実家の押入れの奥に置いてある。何度も処分しようと思ったのだが、処分しようとその箱を開けると古いアルバムを一枚一枚めくるように、思い出がさらに深まってしまったのだ。思い出の場所の景色だけでなく、その時の空気の味、匂い、そして気温や天気までもが身体で覚えているのだ。
「そうだ、亜紀の実家って、徳島県だよね。その写真は徳島にあるの?」
さりげなく、亜紀の今の状況を聞こうとした。
「今は東京よ。お父さんがいい年なのに東京に転勤になって。それで、両親は東京のマンションに引越しをしたの」
僕は、亜紀の一つひとつの言葉に意味があるのだろうと思いながら、心の中で亜紀の言葉を反復していた。「両親が東京のマンションに引越しをした」という亜紀の言葉に、その時、亜紀はどこにいたのだろうか。すでに結婚をしていたのだろうか。でも、すでに結婚をしている亜紀からいろいろ聞き出そうとしてはいけない気がした。
僕たちは日本野球発祥の地のブロンズ像のところから動かずにずっと話をしていることに気がついた。
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