【短編小説】弓張の月 第3話(全8話)
最後の階段に足を乗せると二人で同時に大きく息をはき、歩みを止めた。
「ここが目的じゃないんだから、着いてきて」と言うと、息が整う前にもう歩きだしている絵里奈。登りきったところに学校の裏門があり、その門の横にある細い脇道を慣れた足取りで迷わずに進む。遅れないように着いて行く。静かな脇道の先から、かすかに人の声が聞こえてきた。脇道から見えてきたのは弓道場の射場の建物だった。
「え?ここって、久志高校の弓道部の練習場?」
「静かに。みんな真剣なんだから。いつもの場所まで行くよ」
いつもの場所ってどこなの?戸惑いもせず絵里奈は射場の横をそっと歩き、矢道の横に歩いていく。ここからは射場の中の様子も見ることができる。
「そのピンクのマフラー、目立つね。私に貸してよ。私のマフラーと取り換えてよ。今だけ。お願い」
手を合わせて頼む姿が、不思議とかわいい。無邪気で、天真爛漫そのものだ。
「貸してもいいけど、その理由を聞かせてよ」
「ちょっとまって。もうすぐだから。射場の方を見てて。あ、いた。あそこ、あそこにいる人、分かる?」
「え?」何人かが射場にいる。いつものように自分だけが理解している絵里奈の癖がでてきた。
「分からないかな。右側から2番目に立っている人。ねぇ、格好いいと思わない?」
まさか彼を見るために、毎日、この場所に通っていたのか。
「マフラーを貸してよ。ピンクは目立つから。きっと気づいてくれる気がする」
矢道の横にいるのは私たちだけなんだから、そんなに目立とうとする必要もないのに、と少しあきれながら、あれだけけなしていたピンクのマフラーを貸した。
「ねぇ、弓道って凛々しいよね。凛として、張り詰めた空気感。いいいよね。彼、格好いいでしょ。私の推し」
嬉しそうに話す絵里奈の姿をみながら、寒い中、けなされたピンクのマフラーを交換され、なんで私はここにいるのかと思いながら、弓道を見ていた。
矢が飛んでいく音が目の前の矢道から聞こえてくる。射場からは矢を射るときの音が響いてくる。凛とした空気感の中で、さまざまな音が聞こえる。どの音も緊張感がある。まるで一滴の水が静かな池にポツンと落ち、広く深く響いていくように感じる。凛とした張り詰めた空気が音を運んでくる。気づけば、弓道に見入っていた。
「ねぇねぇ、彼、私たちと同じ高校3年生らしいよ」
返事もせずにじっと射場の方を見つめている時だった。
「君たち、内田高校の生徒?その制服はそうだよね」
突然、声をかけられた。叱られるのか、それとも何かを聞かれるのか。ドキドキした。
振り向くと、道着姿のままの男子が笑顔で立っていた。真っ白な上着に黒い袴をはいていた。白足袋に雪駄。めちゃくちゃ格好いい。
「はい、内田高校3年の谷川絵里奈です。よろしくお願いします」
こんな時、自分を売り込むのかと、飽きれ顔の私。
「きみは?」
「え、私、わたしは絵里奈の友達です」
「僕も3年だよ。矢島とおる。よろしく。ここは寒いから、射場の方にこない?」
絵里奈の顔が赤く染まっているのがすぐに分かった。私も顔の火照りを自分で感じていた。
「ここでよければ座って。でも静かにしてくれよ。後輩たちが真剣に練習をしているから」
スチールの椅子を2つ並べてくれた。ゆっくりと話す少し太めの声に優しさを感じる。
絵里奈がこんなに緊張しているのは、珍しい。推しと言う彼が目の前にいるのだから、それもわからないでもない。
「よぉ、哲夫。内田高校の生徒が練習を見にきてくれたよ」
絵里奈が推している彼の名は哲夫と言うのだと初めて分かった。
弓道を間近で見ると、緊張感は半端じゃなかった。声を出すこともできなかった。身動きせずスチールの椅子に座って、練習を見ていた。
「集合!」
部長らしき人の一声で、全員が集合した。
「今日の練習はここまでにする。哲夫先輩ととおる先輩から一言お願いします」
キビキビした行動と掛け声。見ていても気持ちがいい。凛とした姿、めちゃ格好いい。
「私たち、帰ろうか」小さな声で囁く絵里奈。そっと頷く私。
マネージャーらしき女子にお礼をいって、そっと射場を出た。
「ねぇ、弓道って格好いいね」
「由美は、格好いいって弓道のことじゃなくて、矢島さんのことでしょう」
図星だった。慌てて否定する。慌てないようにしようとすればするほど、顔が赤くなっていくのが分かった。
「絵里奈は哲夫くんという名前がわかってよかったね」
話を変えようとしたが、絵里奈は空を見上げたままだった。
「今夜はお月さん、どこにいちゃったのかな。どこにも見えないね。私たちみたいに恥ずかしくて、どこかに隠れたのかな」
絵里奈も話を変えようとしていた。