小説【再会(9)】 出版社へ3
(9)出版社へ3
電波腕時計をしているのに、スマホをポケットから取り出して、時間を見た。全てのことをスマホに頼っていると自覚しながら、そのまま位置情報をオンにして次の出版社までの経路を確認した。約束の11時まであと5分ほどだった。少し焦って、スマホの画面に表示されている地図を見ながら小走りで次の出版社に向かった。
スマホの画面にメッセージが表示された。亜紀からのラインメッセージだ。
「お昼は一緒に食べる?何がいいかな?」
「わかった」
それしか返信はできなかった。僕の時間ではなく出版社の方の時間に合わせて動かなければならなない。
3月だというのに、額に少し汗が滲んできた。秋田を出たときの気温とは明らかに違っていた。
すぐに目印となる交番があった。間に合った。僕は建物に入る前に、ここの出版社に読んでもらいたい原稿が入っている封筒をバッグの中で確認した。
大きく深呼吸をしてから、建物に入り、受付に声をかけた。
「本日11時に姫野様とお会いする約束をしている納谷です」
今度は、受付の方から声をかけられる前に、声の大きさを意識して伝えることができた。人間は経験が必要だと一人で納得していた。
「納谷様。はい、伺っております」
近くで待っていたように、数秒でベージュのスラックスと少しシワシワの紺のジャケットを着た男性が顔を出した。
「姫野ですが、納谷さんですか?」
「初めまして、納谷と申します」
「お待ちしていました。安納先生の知り合いの高木さんから聞いていますよ。実家で書店を開いているようですね」
「はい。今は作家を目指しています」
「あ、立ち話もなんですから、こちらへ」
姫野さんは、そのまま小さな打ち合わせ室に案内をしてくれた。
「また、どうして小説家に?」
先ほどの出版社と同じことを聞かれた。大学を卒業するとき、「就職面接では必ず動機を聞かれる」と言われていたことを今になって思い出した。
「学生時代からの夢でした」
そう答えたが、どうして小説家になりたいのかを具体的に話していない気がした。姫野さんはにこにこしながら、話を続けた。
「人は、理屈ではないですよね。『給与がいいからこの会社を選ぶ』とか『背が高いからこの人が好き』とかね。みんな心の中で理由もなくそうしたいことってありますよね」
僕は姫野さんの言葉が嬉しかった。まさに今の僕はそうだった。
「だって、納谷くんは、彼女できたとき、その人を好きになった理由などはないですよね。髪が長いとか、出身が同じとかね。そんな理由があって好きになっても、きっとその好きというのは続かないですよ。だって、条件って時間とともに変わりますからね」
姫野さんは、自然に僕のことを「納谷さん」から「納谷くん」と呼んでいた。でも気になることはなく、親しみさえ感じた。
「だってね、髪が長いからという理由で好きになっても、一生その人が髪を長くしているかどうかはかわからないですよね。反対に、納谷さんが小説家になったとしても、小説家だから好きになったと彼女に言われたらどうしますか?小説家をやめた瞬間に嫌わせるのですよ」
「あ、それって」
「納谷くん、わかるかな。人がしたいという思いや好きという感情は、条件付きであってはならないのですよ。それを説明すると嘘っぽくなるんです」
「はい」
「したいからする。なりたいからなる。それでいいのですよ。説明などしなくても『僕は小説家になりたいんです』でわかりますよ」
姫野さんは僕の心を代弁してくれているようで嬉しかった。ちらっと時計を見た。最後の出版社との約束の時間が近づいていた。姫野さんと一緒に次の出版社に行ければ僕の代弁をしてくれるだろうな、など馬鹿げたこと考えてしまった。
「いろいろ勉強になりました。お渡ししたい小説の原稿です。少しでも見ていただければ嬉しいです」
時計をちらっと見ながら姫野さんに原稿が入っている厚めの封筒を渡した。
「お時間がないようですね」
しっかりと僕の目線を見ていた。
「確かに原稿を預かります。君はいい目をしているね」
その言葉だけでも嬉しかった。
「まだ出版社を回るんだろう。頑張って」
姫野さんは、みんな分かっている気がした。
「いろいろありがとうございます」
出版社の出口まで見送ってくれた。数歩歩いたとき、後ろから姫野さんの声がした。
「あ、安納さんにもよろしく。それと高木さんにも報告をしておいたほうがいいよ」
「ありがとうござます」
僕は振り返り、深々と頭を下げた。
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