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つゆ草の思い出

思い出、とは書いたものの…
よくよく考えてみても、それほど大した思い出はなく、
どうやら「何となく」書いてしまったみたいだ。
これはきっと、僕が常日頃「何となく」生きているからなのかもしれない。

もう一つには、これが「つゆ草」ではなく、オオイヌノフグリの思い出、または ヘクソカズラの思い出、とかにしてみたら…。
何となく…  やはり何となくだが、しっくり来ないような気がする。
オオイヌは まだしも…   いやいや、ここはやはり つゆ草で。
それにしても この両者、あまりにも気の毒な命名ではないかと思うのは僕だけだろうか。
もしも両者に意思があれば、抗議の殺到は免れないと思われる。

私的な理想を言えば、つゆ草という言葉の響きから連想される 儚さや別れの思い出話しなどを物語り、最後に「それでもつゆ草は、いつものように咲いていた」などと結ぶと、ふむふむよろしい♪ などと なりそうなのだが、
残念な事に小学校の頃の夏休み、ラジオ体操に行く時によく見かけました、くらいの思い出しかない。

「夏休みだってのに なんで早く起きなきゃならねーんだよ(-"-;)」などと、みんなでブーブー言いながら 寝ぼけ顔でずるずる歩く僕たちに、
道端のつゆ草は陽気に笑いかける。
昼には萎んでしまうつゆ草たちも、だからこそか、朝は元気いっぱいだ。
大勢でこちらを眺めながら何やら話しかけてくるような、そんな気がした。
目線が低かったので、目と目が合うような感覚だったのかもしれない。
遠目にもあざやかな青と黄色だが、近づいてみると 花や葉のいたるところに朝露がキラキラと…。
今思えばつゆ草は、僕の野草好きの原点かもしれない。

雑草と言われながらも食用にも薬用にもなるこの花は、
道端や土手、畑や家の軒下、多少日陰であろうがお構いなしに逞しく咲く。
そんなつゆ草たちに僕は今でも魅かれる。
怪しい人と思われるので 言葉はかけないが、
咲いていれば必ずと目が行ってしまう。
好きなんだろうねきっと…(´-`) 食べないけど…(´-`)

そのうちになんと、僕は つゆ草たちの気持ちがわかるようになってしまった。
降りそそぐ朝陽のなか、露に濡れたつゆ草たちは みな ほがらかに生き生きと咲き乱れ 活気に満ちあふれている。
車道近くや日陰に咲くもの達は少々小ぶりで、埃りにまみれ 葉の緑もくすみ、やや元気がないようにも見える。

うーん…( ̄  ̄;)  
ここまで書いてきたが、どうも着地点を見失ったようだ。
まっしぐらに目的地に向かっているつもりでいたら、実は迷っていた!
的な?…(笑) 

とりあえず…
「それでも どのつゆ草も懸命に咲いている」で、終わりにしておこう♪(^^)







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