すれ違いの刹那
私は、40オーバーの売れてない芸人。最近では珍しくない人種。生活は、アルバイトを掛け持ちしてなんとかやっている。若い頃はアルバイトなんかしたくないと、すぐ辞めて友達や親にお金を借りたりして暮らしていました。家賃も払えなくなり、ドアの鍵を交換されて部屋に入れなくなって、プチホームレスになったり。家賃を払えても電気が止められて、夜はロウソクで暮らしていました。大阪通天閣の、すぐそばのワンルームで、カーテンを空けると通天閣のライトが照明がわりになっていました。
そんな事はどうでもいいとして、今ではしっかり朝と夜、アルバイトをしている。朝は電車で通勤をしていて、最寄り駅から職場には徒歩で10分ほど。その道中、私とは逆に、自宅から駅へ向かう人々とすれ違う。その中にいつも小走りですれ違うサラリーマンの男性がいました。最初に見た時は、「あ〜あ、寝坊かぁ?だらしないなぁ」と心の中で思いました。そして、来る日も来る日も、その男性は、小走りですれ違う…だんだん、心の中で「なんなんこいつ!?あと5分早く起きればええのに、なんでそれが出来へんねん!アホちゃう??」と苛立ち、ちょっと怒りすら覚えました。
それでも、その男性は小走りですれ違う日々を、恥ずかしげもなく続けました。私は「ほんまに、アホやな!」と心の中で思い続けていました。
その日は、ゴールデンウィークが明けて久々の出勤でした。私は職場へと、いつもどおり歩いて向かっていました。それは、いつも小走りの男とすれ違うポイントより少し前。視線を少し遠くへ移した時でした。そこに、驚愕の光景が飛び込んできました。歩いていました。いつも小走りだった、あいつが。雨の日も風の日も小走りだったあいつが。歩いていました。私の時間が少し止まったような気がしました。
あいつも早く起きれるようになったんだなぁ、と少し感慨深いものがありました。が、しかしそれも束の間、私を強烈な嫌悪感が襲いました。歩き方です。その男性の歩き方は、偉そうな歩き方でした。今まで小走りだったので、小物感が漂っていてムカつきながらも、馴染み深さもありました。しかし、歩くと偉そうでした。ゆっくりと堂々と歩く姿は、まさに王様のようでした。後ろに家来達を従えて堂々と歩いてるかのようでした。私は、思わず平伏してしまいそうでした。ですが我に返りました。そして、心の中で「走れ!お前は歩くな!走れ!」と叫びました。彼には、もちろん届きません。
彼はもう、肩で風を切り出していました。私は、ますますムカつきました。ついこの前まで、小走りだった奴がなぜそんなに偉そうに歩けるのか。無神経にも程があるだろと思いました。どうやって倒してやろうかと鋭い目線で溢れ出そうな殺気を隠しながら思案しました。ですが、彼の後ろには、どうしても武装した家来達の姿が見えて、1人では太刀打ち出来ない。いないのだが。
奴は、この世界は自分を中心に回っているんだ、俺が主役なんだ、俺がこの世界を支配する王様なんだ。とゆっくりと歩を進めていました。私は、無実の罪で捕縛され投獄された男のように、屈辱に苦虫を潰す思いでした。「今に見てろよ」と力なく呟きながら鞭に打たれ、力を削ぎ落とされていく。ただの愚かな民のようでした。
私は、正義感だけは誰よりもありました。
親の生き方、出会った学校の先生方、そして友達。皆が正義を信じていたからなんだと思います。それもあってか悪を支持する人達は、自ずと私の元から去っていきました。なんに対しても、私は逃げも隠れもせず、真正面から堂々と立ち向かいました。財布を拾ったら交番に届け、冷蔵庫にあるケーキを食べてしまったら姉に謝り、野球でデッドボールを当ててしまったら、帽子を取って頭を下げる、そんな人生を送って来ました。そして今まさに、この瞬間に、
その積み上げてきた正義で、立ち向かわなければならない悪が現れたのです。元小走り男。
正義は勝つ。しかし、その言葉は無力でした。私にはどうすることも出来ませんでした。
すれ違う刹那に、その無念さに涙が溢れて来ました。私は涙がこれ以上溢れないように空を見上げました。私の涙でいっぱいの目に、優しい青い空が飛び込んできました。
私の心は、青い空に浄化されました。今まで沸き起こった怒りや悲しみが少しずつおさまり、元小走り男が、歩く男になった事を受け入れてあげようと心に決めました。
元小走り男はもうとっくにすれ違って、私の後方を歩いていました。彼は家族を守る為に、会社という戦場へ向かうのです。おそらく。そんな彼の後ろ姿を、私は真っ直ぐな目で見つめました。すると、彼はチラリと腕時計で時間を確認しました。そして、我に返ったように小走りで去って行きました。私は再び空を見上げました。青い空はどこまで広がっていました。
っておい。