たかばしでデ・ニーロ
時計は朝の8時10分を指している。外待ちは並び始めた自分を含めて5名ほど、週末にしては珍しいくらい落ち着いている。先頭の30代のご夫婦がまずお店に入り、続けざまに若い男性が列から解放された。目の前には後ろ姿・服装から、多分40代くらいだと思われる女性一人が旅行用のキャリーバッグを携えて佇んでいる。想い出づくりの為、お店の外観まで隈なく撮影するいつもの外国人観光客なのだろうと別段気にする訳でもなかった。時折、横顔から覗く長めの睫毛が上下に動いている。
「おひとりさまどうぞ。そちらのおひとりさまも」1つ空いたテーブルにその女性は座り、通されるままにその斜め向いの席に腰を掛ける。メニューを手に取りうつむいた女性を尻目にいつもの如く「ミニ麺カタ!」と注文すると、その女性も続けざまに「ミニ麺カタ!」とネイティブな日本語で注文した。思わず女性のお顔をチラ見して驚いた。女優の ”黒木華” の目鼻立ちをすこし細めにした妙齢のとても美しい女性が目の前に。男として意識せざるを得ない。
ラーメン店でこういう緊張感を伴うのは初めてではないだろうか。ラーメンが供されるまでの時間がものすごく長く感じる。携帯を見続けたまま、チラリとも視線を外せない。50過ぎのおっさんが何を今さら、という感じなのだが、邪(よこしま)な感情ではない。ラーメン店という日常の空間に、いきなり非日常性に満ちたミューズが自分の前に現れた偶然に戸惑ってしまったともいえる。
「おまちどうさま」テーブルには同時に小さめの器(うつわ)2つが供される。一味を振り、撮影を済ませ、割り箸を取ろうとするとなんと!なんと、その女性は、箸箱(現在はテーブルにビルトイン)ごと一旦自分の方に引き寄せ、蓋を開けてからそれをこちらに向け小さな声で「どうぞ」と気遣いして下さったのだ!「ど、どうも。ありがとうございます」絞り出すようなか細い声でお礼を伝えながら、一瞬でゆでタコと化した。
そのあとの事はあまり覚えていない。なるべく音を立てない様、お上品なすすりかたをしなければ、と食べ始めに意識したぐらいで、久しぶりの一杯の味が美味しかったのかどうか、それすらも全く覚えていない。食べ終わり、彼女の方をチラリと見ると端末で何かを調べながらゆっくりと食事を愉しんでおられる。さぞ女性らしい方なんだろうな。反面、一人でたかばしに来るくらいだから捌(さば)けているともいえる。
「お気遣いありがとうございました」そう伝え、身支度を整え始める。「あ、いえ」と控えめな笑顔で軽く会釈してくれる彼女の所作は、しばらく脳裏に焼き付いて離れないだろう。席を立つのは名残惜しかったが、行かなければならない。車に乗ると大好きな妄想劇が始まった。ラーメン版映画「恋におちて」ではないか。彼女がメリル・ストリープでおれがロバート・デ・ニーロ。デ・ニーロは渋いのだ。バックミラーの前で口を「へ」の字に曲げ、両手を「ハ」の字の逆に広げる。朝からデ・ニーロの真似をするのもどうかと思うが、こういうのも嫌いじゃない。
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