作品解説│『 ハクジャク / 白寂 / an elephant slept in his silence 』
作品解説
19世紀初頭に発明されて以来、人々は記録と、そして伝達のために写真を撮り続けてきた。
写真は、距離と時間を超えて、カメラの前の出来事を見る人に伝え、そして記録する。
撮り手は、どんな場合でもカメラを手に持ってその場に居なくてはならない、すなわち
自分の眼の前に起きている事しか写真にならないのである。
これが写真の面白いところである。
どんな人物が、何故その場面を写真に収めたのか、
そして、その写真の中の出来事とどう関わっていたのか。
これを想像するのが写真を見るという事の醍醐味である。
単に、「ああ、綺麗な風景ね」とか、
「美しい人ですね」という見方もあるが、
それはそれで、撮り手について想いを巡らすのも一つの鑑賞法であるし、
写真による表現という言葉を用いるのであれば、
そこ以外に作家と鑑賞者を繋げる方法は無い。
時間や距離を超越して作家の脳の中に侵入していくという楽しみ方。
野毛農場は不思議な写真家である。
かつては路上生活(と言ってもホームレスではなく、公園などでキャンプ)をしながら各地を放浪し、
その後、緊急時に海外の工場へ部品などをハンドキャリーで届ける運び屋の仕事を数年続ける。
この仕事は、依頼があると、その日のうちに海外へ飛び、1日か多くても2−3日の滞在で帰国するというもの。
カメラを胸に抱き、毎週、異なる国のベッドで目覚める生活の中で、何を感じ、何を思うのか。
今回の、『 ハクジャク / 白寂 / an elephant slept in his silence 』
これは写真のコンペティション向けに制作された作品である。
真っ黒な写真
「何かのエラーで全てのデータが真っ黒な状態で届いている」という電話がそのコンペの担当者からかかってくる。
これは、多くの人が写真を見る時の普通の反応である。まず、写っているものは何か、そしてそれが意味のあるものなのか、美しいか、
そういった眼で写真を捉える人にとって、この黒い写真は何かの間違いでしかないのだが、
被写体に対する興味や印象、そして撮影技術だけが、写真の見方であるならば、そのコンペティションは表現者にとって、意味をなすものではない。
改めて作品を見てみると、
たしかに真っ黒で、何が写っているかもわからない。
何かのエラーではないのだとすると、
その先へ進むためには、作者を肯定する気持ちが必要だ。
従来の、被写体依存型や、手法による類の写真ではなく、
写真の中に心の有り様を表そうとしている、
心を映す試み。
じっくりと、良ぉ~く見ているうちに浮かび上がるものは…
あたかも闇夜のもののけのごとく、
もう視界ではなく、想像の世界で形をなして行く。
光が極端に少ない、暗闇の中に咲く花。
そのかすかな気配を、作者は伝えたかったのだ。
「何かのエラーで全てのデータが真っ黒な状態で届いている」
1917年のニューヨーク・アンデパンダン展に「泉」というタイトルで、普通の男子用小便器が作品として出品された時に、
定められた出品料5ドルさえ支払えば、誰でも出品できる無審査の展覧会だったにもかかわらず、作品としては採用されず、黙殺された。
このことは、この作品の出品者、マルセル・デュシャンが20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人として評価されるきっかけとなっている。
一つの賭けといってもいいデュシャンのこの行為は、既成概念の中で商品化して行く美術に、表現としての道を指し示す。
写真に思いを託すことのできる人は、限られているし、
多くの写真家は、思いよりも、彼らの存在を示すことの方により関心があるようだ。
存在を示すことよりも、写真という媒体を使って、見る人の心に侵入するという挑戦に、
私は心からのエールを送る。
写真家 矢野 雅也
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