親友
冒頭の文章というのはどうも苦手である。この文章の完成度等が一目で判断されてしまう危険性を孕み、興味を引くかを大きく問われる。
さであるならば、いきなり本題にはいるべきなのであろうが、それもまた、苦手である。伝えたいことをそっくりそのまま伝えるのであるならば、箇条書きで事足りてしまう。回りくどさが文章を構成にするにあたって楽しいことなのだ。推敲して、それらに合った言葉を選びを連ねていくのが、難しくやりがいがあることなのである。
と、いうことで、いい加減な文章で冒頭を埋めれた上に、保険を大きくかけたところで、本題に入っていこう。
信頼のおける友人、いわば親友は何人いるだろうか?という質問を最近友人に問う。簡単な質問に見えて、自身の交友関係を一から見直すような、難しい質問であることは承知の上、時間をかけて考えてもらう。そして、考えた末に出る結果の多くは、片手に収まる人数である。
親友と呼べる人の数が少ないということを改めて自覚し、決まって残念そうな顔をする。まるで、多ければ多い程良いかのように。
果たして、親友は数量に比例して満足、自己肯定感が得られるものなのであろうか。一人でも二人でも信頼がしてくれる人がいればいいのではないだろうかと思ってしまうんだけどどうなんだろ。
友人は多ければ多い程、良いとは思う。様々な個性をもった人と関わって自身の存在を見つめなおすこともできるし、多岐に渡って頼れる友人がいるというのは、この共生社会の上でなんとも心強いものである。
しかし、親友が多ければ多い程良い、というのは間違ってる。誰もが私の心情を理解してくれるわけではない。多く親友を作るべし!とする考えもかえって、交友関係を無駄に膨らませ、綿密にと神経を苦しませるだけだと思う。数多くの人と共存してきた中で、自身の悩みやらなにやらを吐露できる友人と巡り合えたこととその友人を信頼できることが最高に素晴らしく、人生において、もっとも尊いものなのではなかろうか
そんな存在である親友を多く欲するなんて言語道断。一人でも親友とよべる人がいれば、あなたは最も幸せなることができるのだ。しかし、その一人に、大きく負担をかけすぎるのはよろしくないとは思うけどね。
この考え方にの他に、もう一つ、親友の定義について思うことがあるので、このまま話をさせていただく。
親友の捉え方としての多くは、
自分と相手の相互の思いが働いて、お互い親友という称号を得ると考えがちである。言い換えれば、自分はその友人を信頼しているとする。そして、その信頼できる友人の友人相関を考えたうえで、友人の中での自身との親密度を他者と比較し、相対的に高いか低いかで信頼度を測り、親友と決めている。
確かに、親友の選定にあたり、どこかで相手にも自身の承認を求める雰囲気醸し出してるとは思うが、そんなのすぐにでも撤廃してしまったほうがいいのではないだろうか。
ここで提案である。
一方的に自分が信頼できる友人が、親友、とするでいいのではないだろうか。
自分の心情を話せる、話を聞いてくれる、そんな関係が素晴らしく滅多にいない良き理解者なのではないだろうか。相手の承認を求めて自己の確立が脅かされるのであれば、そんな相手からの支持は考えないほうがいいのではなかろうか。
インスタグラムの親しい友達というシステムに似た考え方である。自分が一方的に決めつけることができるということ、システムを作るべきではないが、ある基準やハードルをそっくり変えたほうが、生きやすく楽しいのではないかという提案である。
親友を数量的に見て、幸せを感じる人は、こう考えてほしい。下手に相手の承認を求めすぎないほうがいいだろう。友人の関係でさいなまれている人の精神的にも余裕が生まれればいいな。
ps 高校まで一対一の話すのが苦手だったんだけど、なんかわかんないけど、徐々に変わって一対一のほうが好きになったんだよね。
これに関して共感を得た夏目漱石著の「三四郎」の中での一言。
「相談は一人一人に限る。その代わり暇は要る。大勢寄ると各自が自分の存在を主張しようとして、ややともすれば異をたてる。そうなれば自分の存在が閑却された心持になって、初手から冷淡に構える。」
たしかに~。一対一での会話ってだいじ~。
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