「絆」って何なのだろう。
【1989年にVIP通信でスタートした連載を原文のまま掲載】
僕は和食党だが、月に何度かは台湾料理やインド料理を食べる。時々は、むしょうに東南アジア系の料理が食べたくなったり、今日は絶対に焼肉とか、イタリアンしかない、という日だってある。
エスニック料理の店は、まだまだ増えつつあるが、僕個人の食生活を考えても、それらは一時のブームではなく、定着したといってもよいと思う。
近頃は、現地出身の人が現地に近い味で食べさせてくれる。それを日本人の僕らがうまい、うまいと食べているというのは、もしかしたらスゴイことなんじゃないかと僕は思う。
そういったことと同時に”ガイジン”という観念も消えつつあるように思える。ビジネスマン、旅行者、移住者、難民を含めて日本の外国人は確実に増えているはずだが、”ガイジン”は減ったのだ。
つまり、日本人以外はみんなガイジンという時代はいつのまにか終わってしまった、ということだ。
外国人とひとくちに言っても、それがフランス人なのかイタリア人なのかスペイン人なのか、それによって話す言葉も文化的背景も違ってくる。
同じ英語を使うにしろ、アメリカ人とイギリス人はもちろん違うし、アメリカ国内だって、東部の人間と西部のそれとはノリが違う。イギリス国内だってそうだ。スコットランドの人、イングランドの人、そして、アイリッシュ、さらには多国籍の混血も加わるから、いちがいに判断することは不可能だ。
簡単にいえば、アメリカ人ならみんなステーキばかり食っているわけではない、ということ。人は個性によって判別されるべきなのだ。あたりまえだけど。
その最小限の違い、つまり個性さえ認めれば、信頼関係を作り出すことだってたやすくなる。違いを認めることが理解だ。
しかし、そうは思わない人が世界にはまだいる。南アフリカでアパルトヘイトを推し進める人たちがその例だ。
人間は生まれおちた時から分離が始まるともいわれている。その母と子の分離をはじめとして兄弟はすでに他人。まして肌の色、言語、国籍、階級、職業、学歴、居住区などなど、悲しいかな人々を隔てる垣根はいくらだってある。アパルトヘイトは身近にも存在するのだ。
何かしら共通したものがないと人は心を許さないのだろうか。
それを絆と呼ぶとしたら、いったい何が人々の本当の絆になりうるのだろう。
ネヴィル・ブラザーズはその名の通り、アート・ネヴィル、アローン・ネヴィル、シリル・ネヴィル、チャールズ・ネヴィルの4兄弟を中心に活動するグループだ。4兄弟はソロの経歴も含めるとそれぞれが30年も音楽活動を続けているという、とてつもない人たちだ。
彼らの音楽にはコンピュータにはしった安直ディスコミュージックとは違う、本物のソウルを感じることができる。
彼らはニューオリンズ生まれ(現在も住んでいる)のブラック・インディアンだ。耳慣れない言葉かもしれないが、ブラック・インディアンというのは、アフリカから来た黒人とアメリカ大陸の先住民族、インディアンの混血をあらわす。フランス、スペイン、イギリスとめまぐるしい統治の歴史を持つニューオリンズにおいて、血と文化の交配は常に行われてきたのだろう(いずれにせよ、黒人もインディアンも被差別階級であったことに間違いない)。
混血というのは生物学的に優秀であることが立証されているらしい。文化の混血を想像すれば容易なことだが、コミュニケーションすること自体がエネルギーを生じさせるのではないかとさえ僕には思えてくる。
ネヴィル・ブラザーズの音楽がそういった見事な血と文化の交流の成せるワザかもしれない。
しかし、いろんなものが混じっているとしても、その印象は薄まることなく、常に訴える力を持ち続けているのはなぜなのだろう。
彼らは幸いなことに、常に最小限の絆を確認することができる。もちろん、兄弟だからだ。そして「絆」こそが実は彼らが最も大切にしてるものなのではないかという気が僕にはするのだ。
人間を分離し、排他的にするものと、人間を和らげ繋ぐものは、まったく同じものなのかもしれないとふと僕は思った。ベクトルが逆向きなだけなのだ。きっと。
聴く人をも「ブラザー」にしてくれる音楽は、無限に広がり続ける正のエネルギーに違いない。彼らもそう確信しているはずだと、僕は素直に信じることができる。
「笑い」や「食べること」もそうだが、「音楽」は、ずっと深いところでの人間同士の絆を確認させてくれるものなのだろう。
「ひとつになろう」と歌うこともできるが「魂」は元々ひとつなのだ、と感じさせてくれる力が、音楽にはあるのだ。
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