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家出・旅・放浪

【1989年に「ヴァンテーヌ」で連載されたフォトエッセイを原文のまま掲載】

 ♬水曜日の朝、午前5時。1日が始まろうというころ……

 ビートルズの「シーズ・リービング・ホーム」という曲を聴くたびに僕はある女の子のことを思い出す。

 高校生のころのことだ。当時は僕はサッカーと音楽くらいしか興味がなくて、授業は睡眠の時間だと思っているような、いわゆる無作為な少年のひとりだった。休み時間になると目を覚まし、廊下に出て外を眺めた。窓の外の景色が珍しいわけではない。バカみたいに空を見ているのが好きなだけだった。クラスメイトでさえ、そこを僕の指定席だと思い込んでいるみたいだった。

 そして、もうひとり外ばかり眺めているのが、となりのクラスの廊下にいた。それが彼女だった。

 そのアンニュイなしぐさや、年上の不良とつきあっている、という噂が、彼女を大人っぽくみせていて、人を近づきにくくさせていた。僕もなんとなく彼女のことが気にかかりながら、ひと言も口を聞けずにいたのだった。しかし、彼女はどちらかというと自分に近い人間に違いない、と勝手に思い込んでもいた。

 ところが、ある日から彼女は学校に来なくなった。退学したのだという噂を聞いた。彼女と同じクラスだった友人が、かろうじて消息を知らせてくれた。まもなく職を探して東京に出る、ということだった。

 彼女の出発の日、僕は昼からの学校の授業を抜け出し、駅まで彼女を見送りに行った。薄く化粧をした彼女は、僕がいるのを一瞬不思議そうに見たあとで、ニコリと笑った。しかし、彼女と僕にはそれまで以上に隔たりががあった。決定的な距離だとそのときには思えた。

 僕は制服姿で明日の授業を気にしている自分を情けなく感じながら、ひと足先に違う世界に飛び込んでゆく彼女をただ見送ったのだった。

 ♬彼女は家を出る。永い間否定され続けた内なる何か……

 当時の僕は、ただただ家を出ることを夢見ていたような気がする。どこへ行って何をすると決めているわけではなく、ここより違う所へとにかく行きたい、そんなふうに思っていただけだ。

 そのときなりの理由はいろいろあったに違いない。となりのクラスの彼女のように行動しなかったことがよかったのか悪かったのかもいまだにわからないが、とにかく僕はそうしなかった。

 確かに家出らしきものは2度ほど経験がある。中学生のときが2日間、高校生のときが5日ほど、である。友だちの家を転々としていただけだからたいしたものではなかった。

 そして高校を卒業したとき。これは合法的家出なのではないか、と当時の僕は思ったものだった。東京の大学に入るため…という口実ができたのだ。口実のある家出が果たして家出と言えるかどうかは別として、僕の気持ちとしては、ある種せいせいとしたものがあった(ただそのあとのことを何も考えないでいたというおかげで、ずいぶんひどい生活を送ることになったのだが……)。

 家出というのは一種の破たんなのかもしれない。その場所での自分が飽和状態になってしまうのだ。家では悪いことのように思われがちだが、その場に押しとどめることのほうがもっと悪い結果を生んだりすることだってあるに違いないと僕は想う。自分のことを思っても、親や同級生を傷つけずにすんだことは幸運だったのかもしれないのだ。

 ♬彼女は家を出る。「お金で買えるものは何でも与えたのに」……

 僕が東京に出てきてから、かれこれ7、8回は引っ越しをしている。飽きっぽいというのか、どうにも我慢できなくなってしまうのだ。確かにより住みよいところへ、と移っているわけだが、その際、状況が破たんしたということを考えると家出に似かよったものがありそうだ。

 しかし、引っ越しするたびに思うことは、所有物ものが増え続けているということだ。僕の場合、レコード、本、ビデオ、その他のどうでもいいものが増殖の一途をたどっている。

 自分の過剰な愛着心とはうらはらに、これらすべてを整理、いや、捨て去ってしまえたらどんなにせいせいするだろう、と思うことがある。レコードやビデオだけでなく、すべてだとしたら……。身ひとつになった自分を想像してみる。これは結構興奮できるかもしれない。

 ♬彼女は家を出る。楽しみはお金で買えないもの……

 すべてを捨て去ることが不可能だとしたら、どうすればいいのだろう。例えば、旅に出て擬似的にそんな体験をする。それは可能だ。とすると旅というのは擬似的な家出なのだろうか。

 昨今の旅行ブームというのは、そういったスリルあふれるものとは無縁だ。旅と観光が違うのはいうまでもない。旅人はもっと心細いものなのだ。僕が日本人であろうとなかろうと、行く所が国内であろうと国外であろうと、旅をしていれば、異邦人であり続ける。

 しかしどこか住みごこちのいい場所を見つければ定住することだってあるかもしれない。そんな錯覚が旅の持つスリルでもある。

 定住すれば、またゴミがたまる。さらに移動する。こうして移動と定住を細かく繰り返し続けるとしたら、これはすでに旅ではなく放浪と呼ぶべきだろう。つねに家出を続けているようなものだ。

 このまま東京ここに住みつくのだろうか、と時々考えることがある。別にここである必要はないという気もする。どこに定住するかは誰が決めるものでもないし、世界中どこが一番いいか、なんてことも個人の趣味でしかないのだ。

 そうやって考えるとなんだかうきうきしてしまう。自分はそういえば長い家出をしていたのだ、と思えるからだ。

 じつはこの原稿を書き終えたらすぐに僕はひとりでニューヨーク向かう予定になっている。これが擬似的家出なのか、放浪となってしまうのか、予想できない。

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