2-1.謎のキクヤベーカリー(その1)
「祐天寺に深夜12時くらいに開店する謎のパン屋さんがあるらしいけど、知ってる?」と友人に聞かれた時、「え、そんな店あったかなあ。パン屋さんだったら駅前には3軒くらいあるけれど・・・。」それがキクヤベーカリーのことだと思いつくまで少し時間がかかった。
駅から学芸大学方向に3、4分歩くと「昭和通り」と呼ばれる一方通行の商店街にぶつかる。商店街と呼ぶにはその人通りの少なさに驚かされる人もいるかもしれない。元々駅前の「祐天寺商店街」やお寺に続く「みよし通り」に比べると派手さはなかったが、区役所が中目黒に移転するまでは、区役所に続く商店街としてそれなりの人通りはあったと思う。
区役所移転という大打撃に何軒かつぶれたり代替わりした店もあった。しかし時代の波などと無関係に今でも悠然と営業を続けている店がほとんどだ。昭和通り自体が祐天寺の街を象徴しているような気さえする。そんな商店街の中の一軒がキクヤベーカリーなのである。
そして、なぜかそのキクヤベーカリーが話題になっている。僕もそうだが、祐天寺に古くから住む人たちにすれば、「昭和通りの精肉店の隣りにあるパン屋さん」に過ぎなかったあのキクヤベーカリーがである。それが今や若者たちの間でマクドやロイホじゃあるまいし『キクベ』などと略称で呼ばれているらしい。「80歳を過ぎたおじいちゃんとおばあちゃんが作るパンは素朴で昔懐かしい手作りの味」とテレビ番組で取材されたり、ネット上のB級グルメマニアと称する人たちによって紹介されたりしたのがきっかけだそうだ。
話題になっているだけではない。実際、久しぶりに開店の時刻つまり深夜12時頃、店の前を通ってみて驚いた。深夜に人気のない暗い商店街にそこだけ若者7、8人の行列ができているではないか。看板の明かりもない、半分以上シャッターを下ろした店の前にだ。
夜中でも焼きたてのパンが買える、というのは祐天寺をベッドタウンにする深夜族にはありがたいに違いないが、行列までしていたとは。
中にはネットで話題の店を一度見たい、といういわゆる一見さんもいるのかもしれない。もしかしたら、深夜の行列自体が話題になっているんじゃないか、などと考えながらも、その行列に加わってなんだかわくわくしている自分がいた。
ほどなくシャッターが開いた。
店に並ぶパンは昔ほど種類も数もない。クリームパンやカレーパンが人気だった。中にはかなりのまとめ買いをする人もいる。おいおい、それ一人で食べるのかよ。しかし、僕の好きだったオムレツパンが見当たらない。30年前、キクヤベーカリーでの僕のお気に入りといえば野菜が入った長方体のオムレツを挟んだあのパンだった。それと焼きそばパンの2つが僕の夕食だったこともしばしば。そういえばキクヤベーカリーの開店は夕食時、遅くとも7時か8時だったのだ、30年前は。
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