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「食」の京都にて思うこと

【1993年に新潟日報でスタートした連載を原文のまま掲載】

 京都という町の魅力は多面的だ。京都を好きになる理由も人それぞれに違いない。僕も十代のころから町並みや、そのイメージにあこがれ続けていたが、京都を知るにつれ、その魅力の奥深さは増す一方のように感じられる。十月、十一月の京都は観光客でごった返す。修学旅行シーズンでもあるし、何しろ紅葉の美しい時期である。

 そんなときに突然京都に行きたい、なんて思い立ったとしても、まずホテルがとれっこない。どこも満員だ。普通なら泣く泣くあきらめざるを得ない。祇園祭りや大文字焼きのころも同じこと。せめてシーズンオフを狙って訪れるしかない。思い立った時に行ける方法はないものだろうか。

 とまあ、京都好きな人ならだれでも思うようなことを真剣に考えたのが、僕の友人である。彼は最近、ついに京都市内にマンションを購入した。行く行くは歴史小説を書いてみたいとも聞いていたから京都に居を構えるのは彼にしてみれば夢でもあったのだろう。

 つい先日である。その彼から「いい季節だからおいしいものを食べにおいで」というありがたいお誘いがあった。もちろん喜びいさんで出かけた。つくづく持つべきものは…と思ったことはいうまでもない。

 京都に着くと、僕のために三日間の京都食べ歩きコースがすでに用意されていた。なにしろ彼のメモ帳には、ここ数年の京都通いでチェックした店やスポットがびっしりと書き込まれていた。

 豊臣秀吉が通ったという鰻の雑炊の店に始まって、湯どうふ、ゆばのフルコース、そして僕の大好きなくずきり。焼き栗が売り切れだったのをのぞけば、彼のたててくれたコースは完璧だった。結局のところ、紅葉そっちのけで食べてばかりの三日間だった。おまけに彼が出してくれた夜食のタマゴかけご飯のおいしかったことといったら…錦市場で買ったタマゴだそうだが、ふだん食べているタマゴとはまったく味が違う。京都の「食」の奥深さはこういうところにも感じられた。

 しかし、さすがに夜食のご飯の量はひかえることにした。最近通っている東洋医学の先生に、食べすぎないように、甘いものは控えるように、と言われていたのをふと思い出したからだった。その話をすると、でもね、と友人は言った。ある六十歳を過ぎたひとが「思い返してみると、本当にものをおいしく食べれたのは五十歳まで、だったなあ」としみじみ言うんだよ。五十だよ、五十。おれはもう四十歳だから、あと十年しかないんだぜ。ショックだったよ。でも、そんときに決めたんだ、おいしいものを食べようって。でも、京都だけでもこんなにおいしいものがあるというのに、どうしたらいいんだろうなあ。友人はまじめな顔で言った。

 この先何回ゴハンを食べるんだろう、という、一部の視聴者のひんしゅくを買ったCMがあったけれど、確かに、悲しいかな、人生の食事の回数など、簡単に数えられてしまう。僕のような無精者は、なるべくおいしいものに巡り合えますように、と祈るしかない。もしくは、接待され続けの人生でありますように、と。

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