ちっぽけなウクレレの価値とは
【1993年に新潟日報でスタートした連載を原文のまま掲載】
またまたウクレレの話。
先日、ハワイでとてつもない掘り出し物を見つけた。1920年代製造のマーチンのウクレレである。価値の分からない人には何のことか分からないだろうが、とにかく珍しい物である。
僕はウクレレ愛好家であって、マニアではないのだから、珍しい物に飛びついたり、買いあさったりするあさましいまねはよそうと常々心に誓ってはいた。しかし、そのウクレレの輝きには負けた。正確にいえば埃まみれだったけど、僕の目には光って見えた。事実、70年前の楽器なのに歪み(ゆがみ)ひとつない。しかも現在買えるマーチンの新品は二十万円以上するのに、そのオールドのウクレレは700ドル。これは僕に買ってくれと言っているに違いない。気がついた時には古道具屋のオヤジにお金を払っていた。100ドル値切るのは忘れなかったけれど。
持ち帰ってオイルで磨きあげ、新しい弦を張ったら、本当に乾いたマホガニーのよい音がした。こういううれしさって言い表しようがない。だれかに見せびらかすにしても、ウクレレの価値がわかる人が世間にそういるとは思えない。
そんな時である。ウクレレが好きなスタイリストがいると人づてに聞いたのは。早速連絡先をたずねて、電話してみた。
彼女はウクレレを楽器屋で買う前は、段ボールでウクレレを作って練習したという、今時珍しい熱血ウクレレ娘だった。そしてその後ハワイまでウクレレを買いに行くのだが、その帰りの飛行機の中で読んだ新聞でハワイのウクレレスクールの存在を知った。これだと思って折り返すようにもう一度ハワイに戻ったということだ。
その行動力にも驚かされたが、何よりもこんなちっぽけな楽器に熱心にいれ込んでいるのがたまらなくいいなあと思った。かくいう僕も無類の人見知りなのに、ウクレレのことになると平気で知らない人と電話で話したりしている。不思議といえば不思議だ。ちっぽけなものだからこそできるのかもしれないとも思う。これがイデオロギーや政党や宗教でなくてよかった。外国車や土地でもなくてよかった。彼女と三軒茶屋の喫茶店で会うことになった時になぜかつくづくそう思った。
その席はまるでウクレレのお見合いみたいだった。僕らはお互いのウクレレを見せっこして、おまけにぽろんぽろんと弾いてみたりした。傍目(はため)から見たら、少し異様な光景だったかもしれない。しかし、音が小さいから迷惑にもならないと思うし、何よりもたかがウクレレのことなのだからと思うと、気楽なもんである。
その彼女が二年前にウクレレを持つことになったきっかけを話してくれた。
それまでまったくといっていいほど趣味がなかった彼女は、多芸多趣味なダンナを見ていてうらやましくなり、何か楽器を弾けるようになろうと決心したのだそうだ。キーボードにしようかウクレレにしようかと決めかねた時にダンナに相談した。米屋を営む彼は少しの間考えて、ひとことこう言った。
「老人ホームの個室に持って行けるのは、ウクレレだな」
いい話だなあと思うのは僕だけだろうか。
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