かつて日本中にいたジャニスに捧ぐ。
【1989年にVIP通信でスタートした連載を原文のまま掲載】
ひと昔前の話だが、日本のあちこちにジャニス・ジョプリンは存在した。これは本当の話だ。下北沢のジャニス、本牧のジャニス、おそらくは蒲田や所沢や河原町、すすき野あたりにだってジャニスはいたに違いない。
自らそう名のった者もいれば、まわりからいつのまにかそう呼ばれていた者もいただろう。とにかく、チリチリした髪で、首飾りをつけ、しゃがれた声でしゃうとしていた女の子たちが、当時はたくさんいたのだ。
彼女たちがどうなったか僕は知らない。確実に何人かは歌い続けているだろう。しかし、そうでない人たちは今いったいどうしているのか。
本物のジャニス自身は1970年10月4日にこの世を去っている。同じく夭折した天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリックス同様、ドラッグが原因だといわれている。
ジャニスが生きていた時代。つまり’60年代はとてもスリリングな時代だったと思う。新しい価値観と生活様式が生まれようとしていた。誤解をおそれずにいえば、それがすなわち、ロック的な生き方だったのだと思う。
日本における’60年代のムーブメントは、結局、学生運動に代表されるように、ファッションとしてしかとらえられず、その中の本質的な部分は、ほとんど次の時代に受け継がれることができなかったのではないかと僕は思う(もちろん、種はまかれたのだろうけれど)。
僕自身、ジャニス・ジョプリンという名前には畏敬を抱いていたものの、葬り去られた’60年代とともに印象は薄れていくばかり。今さら、引き出しや物置きの隅から引っぱり出すには、僕をとりまく世の中は忙しすぎたのかもしれない。それとも、時代という張りボテの電車に乗り込んで、窓越しでしか物を見れなくなっていたのか。とにかく、そういった僕みたいなヤツらのおかげで、ジャニス・ジョプリンは伝説化され、ほとんど偶像視され、あげくに葬り去られてしまったのだ。
そして、半年ほど前のこと、『ジャニス』という映画を観た。それは、ジャニス・ジョプリンの生前の映像をつないだドキュメンタリーな音楽映画だった。
以前にもジャニスをモデルにした『ローズ』という映画があったが、そこでは観られなかったものを『ジャニス』の中に見つけることができた。
それは「天才シンガーの孤独」でもなければ「クレイジーなミュージック・ビジネス」でもない。まして「生きていることのつらさ」などというものでもない。
僕が観ることができたのは、ひとりの幸福な女の子の姿、である。本気で笑い、思いきり足で空中をけりあげ、エクスタシーの中で歌っている、自由で幸福な姿だ。
いいかえるなら、この映画ではジャニス・ジョプリンという人を「すでに死んでしまった人」ではなく「まぎれもなく瞬間を生きた人」としてみることができる、ということだ。
そして、僕はそのとたん、’60年代の音楽におぼええた感動そのものを思い出したのだ。人間は感動したこととその対象はおぼえていても、かんじんの感動の中身を忘れてしまいがちだ。
僕が、そしておそらくはたくさんのジャニスたちが憧れたもの、を僕は思い出した。
「ジャニスのように歌いたい」これにつきる(マドンナのように派手な衣装を着てみたいとか、ジャネット・ジャクソンみたいに声援を浴びたい、のとは根本的に違う、とぼくはいいたい)。
そう願った時、自由で幸福な自分が、その瞬間に心のどこかにイメージされたような気がする。少なくとも、僕にとって、願いや祈りとはそういうことだ。
でも、ジャニスは死んでしまって、時代だって変わってしまったじゃないか、という疲れきった声もいまだに心のなかでは聞こえる。「死」は必要以上に神聖視してはいけないし、逆に嫌悪する必要もない、ということを近頃やっと思えるようになってきた。死んでしまった人もいるが、僕は生きている、ただそれだけなのだろう。
ジャニスの最後のアルバム『パール』には、ボーカルが収録されていない曲のテイクが含まれている。もちろん、制作中にジャニスが死んでしまったからだ。
かんじんなことは、もし誰かが(歌に自信のあるあなたが)その演奏に乗せて歌うとしたら、どんな歌が歌えるのだろう。いや、何を歌えるのだろう、ということだ。
もちろん、歌というのはひとつの手段にすぎない。自分自身であり続けるために、歌だけが必要なわけでもない。
「自由て何だろう。幸福って何だろ」ーー僕は、10代の頃みたいに最近、自問自答をくり返している。
あの頃、日本にたくさんいたジャニスたちはどうしてるのだろう。歌以外に自由で幸福になれる手だてをみつけたのだろうか。
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