コミュニケーション 主役は犬
【1993年に新潟日報でスタートした連載を原文のまま掲載】
近所にある区立の公園は、野球場やテニスコートや噴水なんかがあって、都心にしては大きな公園だ。僕はよく犬を連れて散歩に行く。
隣の目黒区では公園に犬をいれられない規則になっているらしく、遠くから自転車に乗って、わざわざこの公園まで犬の散歩にくる人たちもたくさんいる。だからあらゆる種類の犬とそれを連れた人たちに会うことになる。公園は一風変わった社交場と化す。
うちの犬、シルキーテリアの”プリン”は見掛けがかわいいせいもあって、見知らぬ人からよく声をかけられる。それはそれでうれしい事なのだが、困った事でもある。例えばプードルを連れたオバさんが声をかけてくるとする。
「おいくつなの?」
三十七歳です、と言ってはいけない。犬の事を聞かれているのだ。もうすぐ十歳なんです、と僕は答える。
「まあ元気なのね。男の子?」
犬の十歳は人間でいえばジイさんである。しかし、まあいい。そうです、と僕は答える。
「きれいねえ、いつも手入れしてもらってるのねえ」とオバさんはすでにうちの犬に向かって話しかけ始めている。そんな事もないんですけど…と僕はわきから答えている。まるで通訳である。
「うちのマーサちゃんと遊びたい?そうなの、よしよし」こうなると僕はもう答えにくくなる。遊びたいでちゅ、と通訳するわけにもいかない。においを嗅(か)ぎあっている犬を二人でしばらく無言で眺め、やがて別れる。僕の事は何も聞かれない。おいくつですか、とも、ハンサムですね、とも言ってもらえない。
「バイバイ、また遊んでね」オバさんは最後に犬に向かって手を振る。ほら、バイバイだってさ、とわが愛犬に目配せしても、犬は手を振れない。代わりに僕がなんと答えるべきなのか。結局、目礼だけして、帰りたがらない犬の紐(ひも)を無理やり引っ張って歩き出す。とまあ、こんな感じだ。ずいぶん変な対話である。しかし、たぶんこういった”犬を通したコミュニケーション”が公園のあちこちで、あるいは舗道のあちこちで展開しているに違いない。
僕だって、しょっちゅう犬に話しかけたりはする。それ自体はばかげた行為では決してない。犬のほうでもそれなりの反応はしてくれる。分かる言葉もたくさんあるし、それ以上に心の交流を感じる事もある。しかし、そこに他人とその犬が入ってくるとどうもおかしくなってしまうようだ。どうしてなのか。
あれこれ考えた末、こんな簡単な事がどうして、というようなことに気がついた。
何のことはない。犬を媒体としたコミュニケーション、と思っていたのは大きな間違いで、主役は犬だったのである。人間は犬同士のコミュニケーションの手伝いをしているにすぎない。この事実を踏まえれば、あの居心地の悪い会話も苦にならないような気がした。
何でもかんでも人間を中心にして考えていると、つじつまが合わない事がたくさん出てくるものだ。
関口コメント:
世田谷公園のすぐ隣に住んでいた頃の文章。愛犬プリンは21歳まで頑張って生きてくれた。
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