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C・ベイカーの歌から教えてもらったもの。

【1989年にVIP通信でスタートした連載を原文のまま掲載】

 死んだ人のことを語るのは、ある意味ではたやすい。ほめたたえればすむことだからだ。しかし、死んでしまった人の作品に接する時、僕はいつも複雑な心境におちいらずにいられなかった。

 作者が夜を去ったことで価値が出る、ということが往々にしてある。それは、その人の評価を含めて、作品が初めて客観視される、ということなのだろうか。「人間は死んで初めて完璧になる」とボリス・ヴィアンは言ったが、それは本当なのだろうか。

 作品というのは完成したすぐ先から、作者の手を離れ、一人歩きを始める。そして、時とともにさらに遠ざかり続けるのだ。

 しかし、作品は、その時点でその人自身でもあったはずだ。それを思うと、僕は何ともいいがたい気持ちになってしまう。まして、音楽だったらなおさらのことだ。なぜかというとどんなに素晴らしい演奏も歌も、その楽器や口もとを離れるごとに消え去ってしまうものだからである。

 さいわい、テクノロジーの発生によって、それがレコードやテープ、あるいはCDやDATに固定されることは可能になった。しかし、音楽の本質は変わらない。形もなく空気中を漂って消えてしまうものなのだ。

 そんな音楽の不思議なはかなさを思うと同時に「音楽を聴く」ということは、勝手な物語を傍観しているだけなのではないか、という気にさえなってくる。

 チェット・ベイカーというジャズ・ミュージシャンが死んだのは、もう2年近くも前のことだ。

 ジャズにあまり詳しくない僕としては、彼が一時はマイルス・デイヴィスよりも人気があるトランペッターだった、といわれても、あまりピンとはこない。僕はたまたま「チェット・ベイカー・ヴォーカル・コレクション」というアルバムに出会って、彼のヴォーカルに魅かれた一人である。

 彼の歌は技巧的にすぐれたものではないかもしれないが、聴く人をとらえてはなさない力がある。中性的でセンチメンタルでナイーブ、ゾクッとくるほど不思議になめらかな感触を持ったヴォーカルだ。僕は何の知識もないまま、その声の魔力にとりつかれたように、レコードに聴き入ったものだった。

 しかしながら、時代の流れはいなめない。彼の根強いファンは確かに存在したものの、神様になってしまったマイルスとは比べようもないくらい、チェット・ベイカーという名前の及ぼす影響力は小さなものになってしまっていたのだ。

 それは二度も人前から姿を消していた時期があったことにも関係するが、何よりも彼の生き方が個人的であったためなのではないかと思われる。

 1988年5月13日、彼はアムステルダムのホテルで転落死した。58歳だった。彼が死んでから伝記映画「レッツ・ゲット・ロスト」が作られた。そのモノクロームの美しい映像の中に彼の半生をかいま見ることができる。

 しかし、周辺の人びとが語るチェット像は、どう見ても女にだらしないジャンキー、なのだ。つまり「どうしようもない奴」というわけなのだが、同時にけっして憎めない、いや、愛さずにはいられないナイーブさを持ち続けていた男であるということも感じずにはいられない。

 無軌道な人生、という人もいるかもしれない。しかし、もともと人生に軌道などあるはずがない。彼は彼自身のトランペットや歌のような人生を送ったのだ、と僕には思われてくる。そして、こうも思う。その人生と歌をもっとも楽しんだのはチェット・ベイカー自身なのだ、と。「こんなもんだな」と思いながら、彼が吹き終えてしまったその日まで……。ステレオを前にCDの音源で、彼の音楽を聴く僕たちは悲しいことにあくまでも傍観者なのだ。

 ジョン・レノンの映画「イマジン」のラストでは、生きているうちに何かをすることの大切さが強調されていた。確かにそうだ。ジョン・レノンでもジミ・ヘンドリックスでもジャニス・ジョプリンでもリトル・フィートのロウエル・ジョージでもT・レックスのマーク・ボランでもいいが、死んでしまった彼らの音楽を聴くたびに、そう思う。

 しかし、死後の名声のために作品を作る人などいないのだ。彼らからもらった勇気はそういうものではない。自分なりの生き方を選ぶこと。ロマンティックでナイーブで、美しくてせつなくて温かい人生を、今からでも選べるのだ、という祈りに近い勇気である。

 自分の人生に、傍観者でいるわけにはいかない。

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