スワは、「阿呆」と一言、短く叫んで小屋を飛び出して行った。

    酒ァ、百薬の長とも言うだに、わしらァ賤山がつの人間にゃあ、そらもう万薬もの薬にも相当するンさね。とぐに山暮らしなら、なおのごと。ついつい思い浮かべっちまうべな。
 山で炭焼いでたって、いぐらもなりゃしねえさな。おまげに女房サに愛想つがされて、逃ンられっつまって。見たとおりの親ひどり子ひどり。だァーれも助けちゃくんねェ。たま~に掘っ建てでこさえた茶店の客のはした金入ったときくれェしか、飲めやしねェのさ。
 なァーんも好きで山暮らしやってるわげでねぇ。もとはといやァ、庄屋の跡取り息子だったおらァ、ちいせぇときから、賭けごとというか、遊びごとが二度のメシより好きで、十五のときに村の悪童の佐之助に誘われて博打を覚えた。そんときからよ、おらの遊び暮らしが始まったのは……。
 まだカネのあるうちは、例の女房もコロリと参って、おらの腕に抱かれて、いい善がり声をあげたものさな。女の数なあ、銭の数ほどあった。行く道、帰る道、沿道沿いに立ち並んで、おらの手で触れでもらいたくって乳を差し出す女なんていぐらもいたくれェさ。いまだに、揉みしだいた乳房の重みが生温かい熱さを伴って手のひらを伝わり、脳天に突きささるような痺れを感じるくれェだべな。
 すかし、いいごとは長く続くもんじゃねぇ。あとは、もう語るまでもねェべ。飲めや歌えのどんちゃん騒ぎの後ァ、お定まりのどん底暮らし。さすがの能天気なおらの運命にも天罰が下ったってワゲさな。人に知られぬようにと、山ひとつ超えた隣村のあわいに引っ越した。ありったけのカネをかき集めて炭焼き小屋をおっ立てた。炭焼き村のあんまり目立たぬ端っこで、真っ黒になって炭を焼く、地獄のような毎日が始まった。
 しかし、カネの切れ目が縁の切れ目。娘のスワが十二になったとき、女房のスエがそんな生活に溜まりかねて家を出て行った。カネはもとより、ろくな知恵も浮かばぬおらは、物好きの連中が滝見物に来たついでに金を落とすのではないかと、飲み物を提供する茶店を出すことを思いついた。そこにスワをおいて、店番をさせ、少しでも生活の足しにするのだ、と……。
 一年、二年、三年と経づうちに、それまでは素っ裸で滝口まで泳いで、見かけた客に「なにか買わねが」と呼びかけていたスワが、炭の粉で全身真っ黒になって小屋に帰ってきたおらをバカにするようになった。その眼には憎しみも籠り、親を見る眼ではねがった。胸の膨らみもひとしなみに、男の目を惹くようになっていた。幼がったスワも、大人のおんなになりつつあるのがわがった。自我が芽生えてきたのだ。
 ところが、おらを見下すようになっていたスワをおらは憎むどころか、眩しく感じるようになっていた。そりゃあ、おらだって、男だァ。聖人君子でもなんでもねぇ。いくら貧乏で、なにもできねぇからって、なげェ間、することもしねぇで過ごしてりゃ、そりゃ悶々として夜も眠れなくなるってもんだ。なんせ、女房サに逃げられてからというもの、三年もの長き間、鼻の穴から肺の中まで真っ黒にしたことはあっても、あれだけァ、髪の毛の先ほどもしたこたねぇと来てる。
 あんときゃ、たまたまキノコがたんまり採れて、炭のほうも結構売れて、銭ッコも思いがけないほど入って、ちと気が大きくなったんだべな。あん子にァ、なんか土産もんを買って帰ろうと思ってはいた。思ってはいたが、久方ぶりの酒が喉の奥に浸みわたるにつれ、頭ンなかがパーになっちまっただな。
 なんでおらァ、生きてるだに。なんのために生きることを続けているんだに。あんな小娘のスワにさえ、小ばかにされるほど落ちぶれたおらは、なんのために、なにをすたくて生きてるんだァと思ってョ、なんだか世の中、虚しゅう思えてきただに。
 鼻の孔ばかりか、肺の中まで真っ黒にしてよ、ざりざりと舌の上に転がる炭の粉をペッペッと吐き飛ばしながら、炭にのこぎりをかけるおらの命は、いってェなんのためにあるんだェ。おらを憎み、蔑み、暴言を吐くスワ。まだ男を知らぬスワ……。自我を芽生えさせ、おんなになりつつあるスワ……。
 おらは一体、なんのために働いてるだ。そんたら憎まれ口をたたく娘っこが、いつか男を知るようになるときのために、おらは働いているというのだか。それまでおらはスワを養わねばならぬということなのか。「阿呆、阿呆」と蔑まれ、罵られながらもこれ以上、生きながらえる必要がおらに果たしてあるのか。なして、そんたら生きざまを曝してまで生きねばなんねぇ。
 おらは飲めば飲むほど、生きるということがどういうことなのか、てんでわがンねぐなって来ていた。しこたま飲んで、帰ろうとする頃にゃ、外は大雪だァ。身体の温みで溶けた雪のしずくが蓑の中までしみ込んでくる。情けのうて、寂しゅうて、足元がおぼつかなくて、倒れては立ち上がり、立ち上がっては倒れ…。
 ずぶ濡れになって小屋に帰れば、スワが身をこごめて、藁布団にくるまっている。そおっと、その寝顔を眺めているうちに、なんだか妙な怒りが胃の奥から苦酸っぱい汁と一緒に込み上げてきて、おらの喉元に食らいつく。喉がひりつくようだ。無理やり唾をのみ込み、その怒りに身をゆだねる。
 スワよ。なして、おめェはおらを嫌ってるだ。おらが能無しだからかえ。おらがなにもできねぇ、役立たずだからかえ。おらは、おめェのなんなんだァ。そっだに、おらのことが嫌ェか。――と、そう思ったら、無性に腹が立ってきて、どうでもよぐなってきた。構うもんか。どうせ、おらは役立たずの厄介モンだ。
 そんだらおらがなにをしたって、褒められるはずはねぇ。バカにされはしても、崇められることはあんめぇ。つまりは、爪弾きの流れ者だ。なにをしたって構うものか。地獄の底まで堕ちてやる。
 気が付いたら、というより、スワに思い切り頬をぶっ叩かれて我に返った。スワは、「阿呆」と一言、短く叫んで小屋を飛び出して行った。冷たい風とともに粉雪が小屋中を真っ白にし、一瞬にして氷室と化していた。おらは我に返るとともに、真の意味で己が何をしでかしたのかを悟った。身も世もなくし、おらを憎むことで自分を支えていたスワに、まっとうに死ぬ口実を与えてしまったのだと……。



太宰治『魚服記』【本が好き!】noelさんの書評より転載。

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