ああ、自分も弥助にすればよかったのだ。
なんだかだいって、結局、時間を費やしただけだった。俺は思った。こんなことなら、本当に朝日ビイルを片手に弥助をたらふく口にすればよかった。
それなのに、アホが足らいで、あの札ビラを風に飛ばしてしまうなんて……。なんて、愚かな俺だろう。あの落書きをした者のように自分も寿司を食おうかと悩みつつ、風のなかで、十文字に筋の入った十円札を眺めたのがいけなかった。
粟野さんの前に威厳を保てたとしても、結局は、あの十円に俺は食われてしまったことになるのだ。五百部の印税は確かに月給日までの足らずまいを補ってくれたとはいえ、ただの一銭も使わずに風にくれてやったことを想えば、これほど口惜しいことはない。なにせ借りたカネを返せはしたところで、そのカネはもともと俺のものなのだ。
つまりは、俺は自分が貧乏だと愚痴をこぼしたことで自ら面目を失うことをしたのだし、粟野さんは粟野さんで、カネは返してもらったものの、浮かない顔の俺に感謝の意のないことに不信感を抱いたことだろう。善いことをしたのに恨まれるとは粟野さんも割に合わないに違いない。
ましてや薄青い煙をたなびかせ、ゆったりとパイプに口をつける粟野さんを横目に、当の自分はエジプトの煙草どころか、じゃらじゃらと音を立てる六十銭なにがしをポケットにするだけで安物の朝日すら買えずじまい。こんなことでは、東京へなど行けるわけもないではないか。ニッケル製の時計の蓋に映った自分の顔を眺めながら、いったん断ったカネをまた借りに行った自分が恨めしい。
なにが一体、スコットの油絵具だ。フロイライン・メルレンドルフの演奏会だ。とんだ貧乏人が、いい格好をするにもほどがある。なぜ、あのとき、つまらぬグチをあの粟野さんの前でこぼしたのだ。それほど東京へ行きたかったのか。東京へ行って、結局は恰好だけつけて画具を買って、身分に合わない音楽を聴きかじって、それで小説を書くネタにするというのか。そんなもの、誰が読む。大抵の、その志のある者がしていることを書いて、誰が喜んで読むと思う。くだらない。そんなものがゼニになるわけがない。
お前のやっていることは、ただの無駄遣いだ。なんの役にも立たない。父母兄弟にまで無心をして恥ずかしくないのか。鼻ばかり広げて、肝心の頭のなかは空っぽ。伊達に鼻の穴ばかりがでかくても、なんの足しにもならない。
卑怯者がカネを借りること自体、すでに敗北は決まっている。返す当てがないのなら、それをそっくりそのまま使わずに返すしかない。それなのに、この俺はそのカネをなくしてしまった。瀕すりゃ鈍するというが、これこそいい面の皮だ。
ああ、ほんとにあの落書き者の書いたように自分も弥助にすればよかったのだ。それなら、まだ鮨を食べられただけ救われたのに!
芥川龍之介『十円札』【本が好き!】noelさんの書評より転載。
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