Rita Hayworth and Shawshank Redemption
キングは読者の想像ならぬ、創造力に任せてくれる。この話の先は、あなた自身が綴るのだ。
あれは、何年前だったろう。邦題が『ショーシャンクの空の下』(?)だったかの映画をテレビで観て、いたく感動した。そのころはまだスティーヴン・キングの名前すら知らなかった。だが、そんなに遠い昔ではない。おそらく20年も経っていないだろう。
映画好きではあるけれど、生まれつきのビンボー人であるため、カネを払って映画館へ行くタイプではない。なので、決まって映画鑑賞はひとより10年くらいは遅れて愉しむことになる。そして、映画の製作者である監督名は知っていても、原作者の名前までは知らないということが結構多い。
このスティーヴン・キングもそうだった。いまから思えば『キャリー』や『ペット・セメタリー』、キャシー・ベイツのなんとかいう怖い女の映画も観ていた。そのころは、監督名も興味がなく、意識すらしていなかった。当然、原作者は視界の彼方にあって、見えてはいない。
そんなズボラな読者だったと思ってほしい。たまたま、7~8年前、用事があって大阪へ出たついでに、近くにあった大型書店に立ち寄り、暇つぶしに洋書のペーパーバックを買った。それがStephen Kingの『Different Seasons』だった。
一応、この時分には、いかなズボラ男の評者とて、スティーヴン・キングの名前くらいは知っていた。なぜか毛嫌いして、いまだ観たことのない『スタン・バイ・ミー』の作者である。だが、Ben E. Kingの力強い歌は、その当初から好きだった。いまだにそれを聴いて口ずさむこともある。しかし、肝心の本のほうは購入することはしたものの、大阪からの帰り道に電車のなかで数ページ読み進んだだけで、その後、大阪へ出ることもなく、そのまま貧相な書架に預けたままにしていたのだった。
それがたまたま、つい二週間ほど前、コロナ下の手持無沙汰と所在なさも手伝って、書架を眺めていた。その背表紙に眼がいき、「たまには英語の読書もしてみるか」と手に取ったのが、このペーパーバックだった。
しばらく読み進んでいるうちに、なんだかストーリィに見覚えというか、読み憶えのようなものを感じ出した。タイトルは『Rita Hayworth and Shawshank Redemption』だ。見出しには、つぎのような宣伝文句が躍る。
ちなみにロサンジェルス・タイムスに至っては、その書評の一部であろうそれに、
と、マーク・トゥェインやエドガー・アラン・ポーの魅力をも引き合いに出しているくらいだ。
さて、前置きを長々としてしまったが、知るひとは知っていると思うので、あえてタイトルの拙訳は避けることとし、評者が映画での記憶(それも少し曖昧だが)と原作との違いを軸に気付いたことを順に書いていきたいと思う。
この物語の主人公の名前はAndy Dufresne。カタカナにすると、アンディー・デュフレーヌだ。音からしてわかると思うが英語ではない。おそらくフランス系のルーツをもつ男性だとわかる。間のsは、いわゆる黙字でサイレント・アッシュに同じ、発音しない。
で、この男が主人公ではあるのだが、本人は語らない。物語の語り手は、たまたま主人公がぶち込まれた刑務所の先輩格となった男で、いわゆる何でも屋をやっている。確か映画では、黒人のモーガン・フリーマンが演じていたレッドである。原作ではそのどちらとも書かれていない。彼はいう。
つまりは、この男がたまたま知り合った後輩の紳士然とした優男、元銀行マンの頼みを受け入れることから、物語の導火線に火がつけられる。ある日のこと、アンディーが彼のもとにやってきて、つぎのようにいうのである。
その旨、レッドが同意して答えると――。
これがふたりが付き合う始めとなったのだった。
つぎにあったアンディーからの頼みごとは、「ロック・ブランケット、半ダース用意して欲しい」というものだった。ロック・ブランケットとは、鉱物マニアが付けたあだ名で、鉱物を磨くサンドペーパーならぬ布やすりのようなもの。それを使って、ロック・ハンマーで削り上げた小石の表面を磨くのである。
それから五カ月ほど経ったころのこと。アンディー最後の頼みとなったのが、本編のタイトルにもある「リタ・ヘイワースのポスター」だ。
これまた面白くも心憎い心理描写のシーンで、読者はきっちりミス・ディレクションされる仕組みになっている。ちと長いが、引用してみよう。
それこそ、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ではないが、彼は友達のレッドを欺いてさえ、その事実を覆い隠し、趣味の世界への飛翔に思わせようとしているのである。
もっとも、こう書くからこそ、その作為性が眼に見えるのだが、本文では種々雑多な事象が綯い交ぜられて、その事象の面白さに引っ張られるように、つまりはミス・ディレクションされていくのだ。
ポスターには2サイズがあって、大か小かというわけだが、なにもダッチワイフを作ろうというわけではない。小さいので、事足りようというものだ。だが、アンディーは答える。
レッドというやさぐれな、この男が経てきた体験からすれば、このような見方をするのも無理はない。むしろ、そのように釈るほうが自然といえたろう。そこが、キングの腕の見せ所というわけだ。
だが、ここでの評者の役割は作家としてのキングの力量やテクニックの妙味を称嘆することにあるのではなく、物語主人公としてのアンディーの周到さだけを抽出してお届けすることにある。もちろん、ダイレクトなネタバレを承知で書いているのだが、それは先刻、皆さんにはご承知のはずだ。そのために、「ネタバレ注意!」という但し書きが冒頭にあるのだから……。
さて、そうしてみると、いわゆるシナリオ書きのするスケルトンのように、しっかりと物語の骨格が見えてくる。読者はうっすらと、その小さなロック・ハンマーが何らかのよからぬ目的のために使われていることを知りながら、表向きに披露されている刑務所内にある運動場の石ころを奇麗に砕石し、いわば机上のマスコットとしての置物にされるということに満足しているのだ。現にレッドは彼から美しく磨かれたそのひとつをもらったし、房内の窓枠に飾ってあるのを見てもいるのだから……。そして、ここも注意が必要なところなのだが、そのアンディーが映画のように大柄な男ではなく、小柄な男であるということだ。
だからこそ、1メートル20センチのリタ・ヘイワースのポスターで隠すことができるというワケだ。なにを隠すかって? それは読者の想像にお任せするが、基本はこの男が大きくなかったってこと。ここが、予備校の先生なら、「いいか、一度しかいわないぞ。ここは出る。しっかり覚えとけ」とドヤ顔でいうはずのところだ。
これだけ小道具がそろえば、どんな鈍感な読み手だって、そのカラクリに気付こうってもんだが、そこはキング。巧い具合にさまざまな事件を織り交ぜて、読者を退屈させない。物語である以上、なにごとも一直線に進んだのでは面白くない。そこは心得たキング。読者サービスにも余念がない。ま、その辺りは本文を読んでもらうとして、さきに進もう。
そうして艱難辛苦の末、シャバに出たアンディーがどうしたかというと、これがすべてはレッドの想像でしかないのだ。ただし、アンディーからであろう、無言の絵葉書が国境を越えたところから届き、自身も釈放されて、いつの日だったか、アンディーがいっていた石の下に彼からの手紙を見つけることはできたのだから……。
その手紙の一部を紹介する。
かくして、レッドは懐かしいアンディーに再会して、あとは安泰に暮らしたとさ――とはならない。映画では、青い海を背景にロッキング・チェアー(記憶違いだったら、ごめんなさい)のようなものに揺られている男性の姿が映し出されているが、原作のレッドは、彼に会っていない。それどころか、国境さえ越えていないのだ。
最後のことばを引こう。
そう、この続きを書こうとすれば、キングはいくらでも書くことができるのである。しかし、そこはキング、読者の想像ならぬ創造力に任せてくれる。このあとの物語は、あなた自身が綴るのだ。
この書評は『本が好き!』【noelさん】の『Different Seasons (Signet)』の感想、レビュー(noelさんの書評)【本が好き!】 (honzuki.jp)から転載したものです。
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