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自己紹介:100の質問で10万字を目指す(250207版)
友人の宿木雪樹さんが、100の質問で10万字の自己紹介を書いているのを見て、つい書きたくなったので、便乗していきます!
普段から文章を書かない私には、10万字はハードル高いけど、目標は10万字ということで…
我々30代の100の質問といえば、【前略プロフィール】と思いますが(異論は認める)
前略は正直IDの頭桁が00くらい古参だったことを思い出します。当時はアカウントが高く売れたかも知れない。
内容は雪樹さんと同じものを使っていきます⸜( ᐛ )⸝
名前
noteでは「ゆきらび@koro」を使っています。
小学生からオンラインゲーマーで、あるタイミングからコンシューマゲームを通らずに育ちました。
同級生に「モンハンもFFもドラクエもやったことない」って言ったら「何してたん?」みたいなことを言われて、余計なお世話じゃって内心ブチ切れてたとかそんな思春期時代もありました。
さて、オンラインゲームでキャラネームを決める時、色んな決め方があると思いますが、私は当時から好きなカードキャプターさくらの「雪兎」からとりたかったんです。とはいえ、何百、何千人(当時)のユーザーがいて、重複を許容しないゲームではこの名前をとるには至難の業なのです。だったらひっくり返そうと子供の発想で「兎雪」を長く使っていました。
今もモンハンは「とゆき」です。モンハンは4から始めました。ワイルズもやるよ。これを読んでるハンターさん一緒に遊びましょう(誘うな)
そこからサブキャラを作る時に派生した中にひとつに、「ゆきらび」があることを久しぶりにログインしたゲームで思い出し、採用しました。
後ろの「@koro」は某オンラインサロンで使ってて、これは今の愛犬ころもから。
由来に中身がなさすぎる。
性別
「女」です。年々社会的にも、自認的にも本来生物学的には2種類であろうことに向き合う必要が増えてきて、めんどくさい世の中だなと思考放棄しています。
若い頃は性別を武器(?)に修羅の現場(仕事)を渡り歩いたりもしたけど、気づけば中堅。そういう無茶な働き方も億劫なお年頃。別に今話題の過激なことはしてないですが、ただ男性社会のIT業界(≠Web開発)では、おじさんチームに20代の女性がいるだけで、何となく許容される空気になりがちな時があります。そういう時、こちらの要望を伝えると通りやすい。そういうことです。
誕生日
1992年4月21日です。
同じ誕生日はHIKAKIN
ちなみに結婚記念日もHIKAKINと一緒
(誰得なネタなんだ…)
他には、YouTuberの加藤ひなた、タレントの朝日奈央が同じようです!
年齢
気づけばもうすぐ33歳児になります
今も昔も欲しいものは自分で手に入れ、やりたいことは楽しく全力でやって生きています。
学生の頃、人生設計を考えるみたいな授業ありますよね。この歳までに結婚したいとか考えるやつ。多分クラスの女子の中で私だけが「自分の家を建てる」が組み込まれ、「結婚」や「出産」を含まない人生設計を作っていました。めちゃくちゃ苦痛だったあの時間。苦痛を得た記憶は残るのが長いよね。
現在は東京都に住んでいて、建てるにはお金もかかるし、オシャレな家を考えるだけで3年くらい経ちそうなので、30代の私は「オシャレな人が建てた中古注文住宅を買う」という選択に落ち着きました。
だけど、建てたい気持ちはむしろ膨らんでしまって
生きてるうちに建て替えもしくは、土地から選ぶのをやってみたいなぁと思っております。だから、空き地見つけると嬉しくなっちゃう。ここに買ったらという妄想が膨らむ…
身長
最終計測では154cmでした。
長年153cmだったけど、2年ほど前から1cm伸びました。
まず全体的に骨格が歪みフルコンボです、
反り腰、ストレートネック、内巻きの肩、凝り固まった足首、筋力ゴミなインナーマッスル…。
数年前にあまりに肩こりの頭痛が酷くて、整体に通っていた時期があります。
そこで骨格矯正を受けていました。骨の位置を戻して、反り腰や巻き肩の改善をしていく治療です。
この治療で骨盤が前傾から戻ったことで、身長が伸びた、というか多分本来の数値が出たみたいです。
整体の通院をやめてしまったので、また縮むかもしれません…
視力
左右のコンタクト矯正はどちらも-6.0台をいれています。つまりとても悪いです。
メガネだと-7.0前後ですかね。
学生時代に某コンタクト屋でアルバイトしていて、
その頃に医療分野への興味関心が一気に開きました。
ただ私は自分の血や怪我はいいけど、他人のものは苦手な部分があります。だから手技、医療行為は難しいだろうと諦めていて、だからソフトウェアから携わる道に進んでから切り離せない分野になりつつあります。
でも直接医療行為を行わない医療従事者って結構あるんですよね。
利き手
右利きです。
昔、母が言っていたのは「手を使い始めた頃は左利きっぽかった」とのこと。
成長と年子の姉の影響なのか、右に自然になったらしいです。
小学校低学年くらいの頃手話を習っていて、複雑な表現が増えるにつれて、左右が曖昧でよく直されました。これに関しては利き手より左右の認識の問題のような気もするけど笑
細かくなければ左で箸も使えるし、左の方がペットボトル開けやすいけど、身体の左側に怪我が多いからやっぱり右利きなのでしょう。わからんけど。
足のサイズ
23.5~24.0cmです。サイズは至って平均的!
足囲が広めで、足の甲が高く、かかとが細いです。
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前の回答で、整体に通っていた事を書きました。
「扁平足」ってよく子供の頃いましたよね?土踏まずがなく平べったい子。私は昔から無縁な単語だったんですが、扁平足の対になる土踏まずが「ハイアーチ」です。整体でハイアーチですね〜って言われて、一瞬「ハイタッチ」って聞こえて何言ってんだと思いました。ハイアーチはハイアーチで、色々都合が悪いらしく、足の裏が浮腫みやすいとか何とか…
歩きすぎた時、土踏まずが吊りそうになったり痛くなったりしやすいのもハイアーチのせいみたいです。(正確な情報は医療機関で相談してネ)
だから、土踏まずが高くなってるインソールとか。使うのが本当はいいみたい。
なくてもダメ、ありすぎてもダメ、それが土踏まず。
血液型
O型です。大雑把でおおらかとはよく言ったものです。血液型占いとか、血液型の説明書とかね、流行りましたよね、アラサーのみなさん。
そういえば昔、流行った「B型の説明書」 という本があります。後に他の血液型も出版されていますが、始まりは自費出版だとか。
私は読んだことないけど、今考えたらなぜたかが4種類の血液型で性格分けされていたのか……
私はO型だけど、母がB型で、傾向的にB型が強く見えるらしくて、母親にさえ血液型はB型なのではと言われていました。血液型って変わるらしいからなんでもいいんだけどね、輸血が必要になれば直前に検査されますし。
出身地
北海道は知床半島の出身です。でも北海道で暮らすのは相性が悪い。母親にもここで育ったのになぜと言われていますが、こっちが知りたい…。
北海道にいると、肌荒れはいっそう酷くなり、秋と雪解け時期にはアレルギーが酷く、風邪もひきやすい、冬は日照時間の関係で冬季うつっぽくなりがち。
東京にきてからは、花粉症では無いので春は快適だし、冬は北海道よりも日照時間が長く暖かいのでメンタルもだいぶ良く、秋のアレルギーはあるけど北海道程酷くない。
私は、北海道の雪景色も好きだし、最終的に住んだ大雪山の麓は田舎住まいの中でも特に楽しく過ごした期間だった。夏は地元で鯨探しして、冬も地元でワシを探し、大雪山の麓は星が綺麗だったし、移住者が多くてみんな優しい。今では新しい飲食店も増え、様々な取り組みがされている良い街です。
セコマもツルハも大好きで、セコマ、ツルハ、スリコ、ユニクロ・GUがあれば生きていける(と思ってる)。
だけど、どうにも長く暮らすには相性が悪い。
中学時代の部活
吹奏楽でトロンボーンを吹いてました。
長くて伸びるやつ。JAZZだとバリバリ鳴らしてめちゃくちゃカッコイイ。だけど、肺活量が足りなくて私には中々かっこよく吹くことができませんでした。
吹奏楽部は姉が先に入部していて、廃部直前のところを建て直しました。私は特に意志がないまま姉に倣う形で入部したけど、何となく同じ楽器(クラリネット)は違う気がして、トロンボーンが綺麗に音が出たからという理由で選びました。
だけどそれが地獄の始まり。
何故か低音パートは演奏は上手な問題児だらけだった故に、他の花形パートからは見下された存在でした。
先輩が卒業したあとも、その風習は残りました。
地域の少年団の空手にも所属していて、全国大会の出場を決めた私は、吹奏楽の夏のコンクールと両立すべく吹奏楽の朝練と空手の朝練を半々、水金の練習も半々でやっていました。幸い、中学のある山を降りたところに道場があったので、帰らずに道場行くのは楽でした。でも、それが吹奏楽部からしたらサボってると認定、朝っぱらから呼び出されて、何故か私だけが怒られたあの日のことは一生忘れないと思う。他にも長く部活に来ていない人もいた中で何故?
その日は部活に出ず、夏コン出ずに退部する!!とブチ切れで帰宅した私に、母が何があったと聞いてくれて全部話したらその場で学校に電話した母の姿もたぶん一生忘れない。
私の母は、勉強しなさいとは言わなかったし、勉強できなくてもいいとさえ言っていたけど、それ以上に「何か言われたらお母さんが学校に電話する」とも言っていて、だけど半ば冗談だろうと思っていたから、この人本当に電話するんだ…って逆に落ち着いた私がいました。
その後結局、顧問の方から頼むから引退までいてくれって頭下げてきたから仕方なくやったけど、今ならきっと断って辞めると思う。辞めればよかったとさえ思う。でも副顧問には1年からお世話になっていて、全国大会の福岡へ移動と、地区コンクールの参加のために奔走してくれた恩もあるから、そういう意味では辞めれないのかも。
音楽は好きだし、楽器も好きで吹いてる時間は楽しかったのに、どうしても中学の部活はこのエピソードが強すぎてつきまとう。
高校時代の部活
写真部でした。
ありがたいことに、北海道に住んでいた頃の私をご存知の方は、私といえば写真と言ってくれる人もいました。私の写真人生の本当の始まりはここです。
でも、好きで始めたと言うよりは、吹奏楽部から逃げた先がたまたま写真部だっただけです。
私の高校は、公立の中高一貫校でした。だからイベントや演奏会は高校生と一緒に演奏するのが習慣でした。もちろん姉も同じ高校で、姉は大学まで吹奏楽部でしたから、顧問の先生も知ってる仲です。高校は進学先が違う人もいるので、部員数が減っていたので、吹奏楽部顧問からも戻ってきてよと何度かありました。たぶん高校の方がもっと人間関係も丸くなってたと思うけど、どうしてもあの中に戻る気にはなれなかった。
ほぼ活動無しの写真部だったけど、私が部長になったときに、ちゃんと活動するように建て直しました。ここは何だか姉妹の血を感じますね。高文連で入賞するようになる頃には写真が好きになっていました。出来れば美大とか行ってみたかった。
その後は少しづつ自分でカメラを買い、再び本格的に撮り出したのは社会人になった頃から。写真でお金を頂くこともできたし、色んな人の心に残せたかなと思うので今は満足しています。北海道で最後に住んだ町で、小さな個展を開く機会もいただき、展示販売という形でいくつかは気に入ってくれた方の所へ旅立ちました。吹奏楽部とは反対に良い気持ちで区切れたなと思います。
余談だけど、雪樹さんのお部屋の写真で、壁に私の作品が飾られていてドキドキしました。壁の色と相まって、リスが住んでるみたいで、こんな嬉しいことある!?!?(落ち着け)
習い事なにしてた?
習い事やっては辞めてを繰り返してて、時系列だとこんな感じになります↓↓↓
幼稚園の頃
┗習字、ピアノ
小学校低学年
┗日本舞踊、空手、ピアノ、手話
小学校中学年
┗空手、ピアノ、手話、水泳
小学校高学年
┗空手、ピアノ
習字は気づいたら通ってて、ピアノは姉が始めた事をきっかけに私もやりたいと駄々を捏ねたらしい(覚えてない)
日本舞踊は祖父の趣味で半ば強制的に習っていましたが、空手と真逆の位置にあって続けるのが困難だった記憶があります。正座ひとつも、膝を開きなさいと言うのが空手、膝は閉じなさいが日本舞踊なのでもう大混乱です。後半は浴衣や着物が着たくて続けていたくらいです。ただその経験が数十年を経て趣味和装という形で活きているから本当にどこで役に立つか分からない(笑)
手話も水泳も、姉や友人に誘われて何となく行ってただけなので全くものになってません。水泳は体育で上の方のクラスに入れるくらいには泳げたけど、今さら泳げるのかはかなり怪しい……。
さて、残っている空手ですが、中学の部活でも書いたけどこれは結構頑張ってました。最初は友達に誘われてだけど、やりたいと言って始めた手前、絶対辞めさせない親VS辞めたい時期の私という時期もありました。(先生怖かったから)
だけど、結局高校生になるまで通い続けたのは、私にとって道場がひとつの居場所だったからです。慕ってくれる後輩や、頼りに思ってくれる恩師やOB、OGがたくさんいました。今でも後輩の保護者さんは地元で声をかけてくれるし、お坊さんになった後輩も「覚えてますか!?」って言ってくれるし、共に育った1つ下の友人は今でも会うと安心する友人の1人です。
人格形成にも、意志形成にも、働く姿勢にもどこかに空手の恩師の教えがあります。これは友人とも話して、同じ時を過ごしたからこそ確かめあえたことでもあります。負けて悔しかったことも、一緒に全国大会へ行ったことも、私たちを形成する大事な経験だったなと笑い合えることがありがたいと思う。
最終的には、教育長という立場上、道場の継続が困難になりました。畳む前に道場を継いで欲しいと声をかけて下さったこともあります。私は自分の進路を優先したから継げなかったし、結局先輩方が誰も首を縦に振らなかったことでダメ元で言われてたことでもあるけど、ダメ元でも信頼してくれることが嬉しかった。
その数年後、大学の卒業論文を恩師に提出する前に急逝されました。その出来事も私の心にはとても大きな傷と共に残っています。
時々、先生に「しっかりやれ!」って笑顔で背中を叩いて欲しいときもあります。
つらくてしんどかったけど、結局大事なことは空手で学んだんだよね。