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①教師になった理由

3年間やった教職。
現場に出たのは3年間だけど、教育について考えるようになってからはきっと十年近くが経っている。いくつかのフェーズにわけてまとめたいと思う。
今回は教師になった理由について書く。

教師になろうと思ったきっかけとか、特に無いように思う。あんまり覚えていない。面接でもきっかけは後付けだった気がする。憧れ、とか誰が知りたいの?と思ってたし。
でも確実に覚えてるのは、
「神のお告げがありまして。。。」(結婚できない男より)
レベルの、ただ漠然と、いつか教師になるんだろうなという気持ち。これは中学生くらいからあった。
昔の昔は、医者になりたかった。
単純に、お金が欲しかったから。
中学受験に落ちて、誰からも言われてないけど、医者にはなれないんだと思った。
そこから将来の夢を考え始めたが、きっと身近な大人である先生に漠然と憧れてたのかもしれない。当時から教職がブラックなことをわかっていたので、なりたくないけど、なっちゃうだろうな、みたいな謎感覚があった。神のお告げだよな〜。

高校生になっても、「先生になっちゃうかも」が頭にあった。だからこの辺から先生になりたい理由を探し始めてたかもしれない。
高校では、面白い先生にたくさん出会った。
世界史の先生はいつも知らない世界を教えてくれた。新しいことを知るということ、学ぶことの楽しさを教えてくれた。学び続ける人間でいたいと思った。教職についてもよく教えてくれた。
「お金はお墓に持っていけません。思い出は持っていける。」これが印象的だった。
部活のみんなで何かを成し遂げる、人の言葉に感動する、誰かのために何かをする、そういうものを思い出すと涙が出るほど嬉しくて、たまらない気持ちになる。そういう経験が自分を作っていく。物質は、ゴールになり得ないんだよな。自分が変わっていくこと、何かを成し遂げること、それを突き動かしてくれる人間関係。それこそ尊いと、思った。
そんなふうに思わせてくれた先生。
学ぶことで人生は彩られると教えてくれた、たくさんの先生方、感謝しかなかった。
私は貧しい家で育った。
愛情は一心に受けたが、勉強について教えてくれる人はいなかった。
先生に出会えなかったら、また違った人生だったと思う。
今の自分自身の志に満足してるから、
先生たちに感謝している。
この、感謝の気持ちと、人間関係は尊いという思いが、教鞭を執る決心を私にさせた。

高校生の頃に出会った化学の先生は私を理系の道に引きずり込んだ。先生にする化学の話が面白すぎて、部活を抜け出して化学科の職員室でたくさん話をした。
物理の先生は物静かだけど有名な先生で、めちゃくちゃ憧れた。物腰が柔らかくて本当に素敵な先生。大好きで、たくさん質問しに行った。
大好きな先生のために勉強していたところもあったなと思う。それも、感謝。
ある日その物理の先生に、慣性の法則について質問した。慣性の法則とは、
「力を加えない場合、静止してる物体はそのまま静止し、運動している物体はそのままの速さで等速直線運動を続ける」というものだ。
私はこれを聞いて、未来のことを勝手に決めているな?と思った。
「力を加えない場合に、静止し続け、等速直線運動を続けることを、誰かが今も見守って確かめているんですか?」ときいた。
「そういう法則があるということが、わかるということです。」
それまで理科は、散漫な世界をただ記録するものだと思っていた。
物理の先生は私に、「物理」を教えてくれた。
世界は散漫なんかじゃない。「理」があるのだと。
ボールの落ちる場所は投げる瞬間に決まっている。
中学生まで私はそれに気づかなかった。
そして衝撃だった。
科学の世界に魅了された。
私の中で、自然科学をやりたいという思いが強くなった。
世の中のため、人間のためでもなく
純粋にただ存在している自然科学を知るために、
私のために勉強したかった。
だから、理学部で自分のために自然科学を学ぶ。そこから教員になって、
教員になってからは誰かのために力を尽くそうと思った。
その夢が明確になったのが高校2年生の終わりのころだった。

大学での自由気ままな4年間は将来についてたくさん考えた。
私は結果的に面接対策もせずにストレートで教採に合格した(低倍率だからだけど)が、山形での自由な時間に、膨大な自己分析ができていたからだと思う。教員のブラックさが恐ろしくて自信を無くすこともあった。感情移入しすぎる性格と教員の仕事、自分に続けられるのか不安もあった。ライフワークバランスとか追い求めたいと思うこともあった。
でも暮らしていく中で当時自分のアイデンティティは「人のために何かすること」だった。自分が先生たちに出会って、人生が彩られた。私も、自分に出会ってよかったと思ってもらえるような、みんなの最後の砦でありたいと思った。誰かの人生の当たりくじになりたかった。そうすることで、自分の居場所を探していたのかもしれない。そのころには、友達も厳選されていて、自分の話すことややっていることに肯定的で、刺激もくれる、内面でつながれている人ばかりだった。周りの人に恵まれていると感じるとき、自分は人生の分岐点、すべて選択に成功していたと思える。私と全く同じ人生を歩む人はいない。だから私と全く同じ人間関係の構成で生きている人はいない。人間関係が素敵だと思えるとき、それぞれの分岐点で出会えなかった可能性もあったわけだから、ますます尊い。素敵な友達は、自分の人生そのものを愛せる要因だった。そういう経験をこれから出会う生徒たちにもしてもらいたいと思った。人と自分丸ごと愛せる人生であってほしいと思った。みんなが幸福である世の中についていつも考えていた。
もっと広い視点で、国についても考えた。
日本の未来は、日本の子供が作っていく。
社会を育てる=人を育てることだと思う。
みんなが役割を果たし、幸せを感じながら成長していく国を作らないとと思った。

自分が学び成長すれば、子供たちの成長、日本の成長につながる。
残業代は出ない。でも、教師は、ずっと教師だから。聖職だからと思って、すべての力をささげようと、ワクワクした。自分がしてもらったように、教育的愛情で子供を助けたかった。公教育が、教育のセーフティーネットであるべきだと思った。日本の未来を創る要であると信じて、たくさんの想いをもって教員になった。

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