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結局「今」しか語れない

ついに日記を辞めてしまった。

コロナが流行り始めた頃、1年間だけやった日記は、ステイホームの頃のことや自分の尊い山形での生活がしっかり記録されていた。
読み返すと、嬉しい気持ちになるし、
こうやって日々を積み重ねてきたんだなと、
365枚のページ数が、しっかり、1日ずつ積み重なっているものだと実感できてよかった。 
日記をやっていなかったころも、信じられないくらいツイッターをやっていたので、自分のアカウントで検索をかけて、昔の自分に問いかけてみることもあるくらい、案外自分は大学生活を記録に残せてきたなと思う。

教員をやっていた3年間は、守秘義務もあって言えることも少ないし、忙しくて忙しくて、自分らしさが消えている実感がいつもあった。
ツイッターもできなかった。
教員時代のこと、今は語れない。
いろんなことがあった。
でも、先生だった頃の気持ちはもう思い出せない、というか、思い出せている気になっているだけかもと思う。
1日ですら、午前の自分と午後の自分で全然違うのに。とか思う。
3年間なんて、長すぎる。毎日いろんなことを思って過ごした。でも言葉にしてないから、積み重ならなかった気がしてる。
だから、3年間は空白というか、完全インプットだったと思う。
その3年間を、今からみてどうか、ということしか、語れない。
結局のところ、「今」についてしか言及できないなと、思う。

文章を書いていたり、しゃべっているときに思うのは、
「100あるなかの1をやっとこさ捕まえて、繋げている」
という感覚だ。
でもその他99も、なんか、繋がっていて、
繋げられたのとは別の意見もあったりして、
それを繋げることはできなくて、苦しい。
こういうの、病院とか行ったら治るのか?
とにかく私の頭の中にはいつも言葉がたくさんたくさんあって、なんとか繋げて外に出したい気持ちがある。
教員3年間は、言葉を繋げることがほとんどなかった。繋げたことのある言葉を喋って、新しいことがなにもわからなかった。
結局、言葉で出していかないと私は駄目になるんだと思った。
言葉を繋げて、文章にしたり、自分の中で答えを出す活動が、自分の生活には大切だということがわかった。

最近は動画を作っていて、日常の動画をよく撮る。日記みたいな感覚だ。
でもこれも、編集しないといけない。
編集して、後で見れるようにしないと、データがどんどん膨大になって、見返せなくなる。
でも、編集時間は取れず、動画が溜まっていくということがよくある。
これは私の頭に言葉が溜まっていく感覚にかなり似ている。
あと、古い動画は編集する気が失せる。
これも私の頭の言葉は、覚えていたとしても、「今」から見た感想でしか言えないというのに似てる。
動画編集、その日のうちにすることが大切だと思う。

言葉も同じで、せめて一日単位でも、記録していくことが大切と思う。
一個しか語れないことが不安で、一個も語れなくなってしまっているけど、
一個ずつでも出していきたい。
自分が思考してること、認識して、
それについて深めれば脳ももうちょっと
一つのテーマに集中して考えるのかもしれない。
日記はアイパッドで書いていたけど、それはノートアプリが都合が良かったことと、絵日記で、絵を上手くしようと思ったからだった。
今は、両方そうでもないのと、SNSにあげるのに、ノートアプリは工数が多すぎる、写真を上げるのがだるい、とかもあるので手軽な方法で文章を書くことを続けていきたいなと思う。

なんの話?
でもいい。とりあえず、言葉を出せたから





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