リアルとバーチャルと幽霊と
こんにちは、バーチャル土木ねずみさんのたいらのどかです。
noteでは私の昔話や裏話を書いてます~
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昨日あるグループにお誘い頂きました。
バーチャル人格やバーチャル空間での生活を大切にして暮らしていきたい人が集まるグループとのことで、以前アバター作成のためにお世話になった方が発起人なので参加しようかなと思ったのです。
私自身VtuberでVRに可能性を感じていてバーチャルなみんなが好きなのです。でも、そもそもバーチャルって何なのでしょう。
よくわからないのです。
そこで私がバーチャルについて常々思っていることを書こうと思います。
具体的にはバーチャルの定義というのは実在しないものをあたかも存在しているかのように想像することであることであるので、幽霊と墓地の例を通して何がリアルで何がバーチャルかについては人によるけど両方とも気持ちが大事だよねという内容です。
以下の文章はバーチャルYoutuberにまつわる議論や知識を前提に書いている部分があります。読みにくいかもしれませんがご容赦ください。
バーチャルとは?
デジタル大辞泉を引くとこのように書いてあります。
バーチャルとは
「実体を伴わないさま。仮想的。疑似的。」
仮想とは
「実際にはない事物を、仮にあるものとして考えてみること。
仮に想定すること。」
実体がなく実際にないものをバーチャルなものとする、と。
私たちは実在しないものをあたかも存在しているかのように認識することができる、実に興味深いことです。
このことをVRとは別の視点から考えてみましょう。
たとえば幽霊と墓地について。
たとえば幽霊と墓地
私はまだ幽霊にお会いしたことがありません。
私はお寺や神社にお参りするのが好きなのでよく霊的な場所に行くのですが、幽霊をお見かけしたことがありません。
かつて私は仕事で所有者不明の墓地に取り壊し予告の看板を建てたことがあります。あまり知られていないことなのですが公営墓地では墓守と連絡が取れずで管理費が納められていない場合、墓地の区画を開けるため"墓じまい"することがあります。
しかし公的機関が相続人の財産である墓地を取り壊すには告知をしなければなりません。そこで所有者不明の墓地に取り壊し予告の看板を掲示しなくてはならないのです。
(※取り出されたお骨は納骨堂や無縁墓地に納めて供養するそうです)
私はお仕事で所有者不明の墓地に取り壊し予告の看板を建てたことがあります。その中で私はお墓の前にスコップで穴を掘ったり骨壺を掘り出したり墓石に穴をあけたり(削孔)しました。
でも特にたたられず元気に生きています。
どうも私には霊感がないようです。
しかしお墓に手を加えるなんてことは幽霊が存在すると信じている人たちにとって恐ろしいこと以外の何物でもありません。お墓に眠る仏様や幽霊にとってはお墓めちゃくちゃにされるなんて大迷惑であろうことは想像に難くないのです。いくら所有者不明の墓地は取り壊しのための予告看板の設置をしなければならないという決まりがあったとしても、信仰に篤い方々にとってもまた容易に納得できることではないでしょう。
しかし幽霊は現れませんでした。
私は幽霊の姿を認識できなかったのです。
誰かのリアルは別の人にとってのバーチャル
私にとっては幽霊は認識できない、けれども別の誰かにとって幽霊は疑いようもなく実在しているのです。
同じように誰かにとって実在していないと思われている事柄であっても、別の誰かにとっては実在していると思われているかもしれません。
たとえば私は美少女バーチャルYoutuberの「のらきゃっと」さんのファンです。私にとって彼女の実在は疑いようもないと思っています(その理由は別の機会に書こうと思います)。しかし別の誰かにとっては「のらきゃっと」さんは実在しないと思われているかもしれません。
つまり、同じ現象であっても実体があり実際にあるものとはどのようなものかについての定義によって実在・非実在は左右されるのです。
そう、誰かのリアルは別の人にとってのバーチャルかもしれないのです。
砂山のパラドックス
個人の中でさえもリアルとバーチャルを区別しようとすれば矛盾に突き当たるのです。
砂山のパラドックス(すなやまのパラドックス、英: paradox of the heap)は、述語の曖昧性から生じるパラドックスの一種である。
(中略)簡単に言えば、砂の山があったとき、そこから数粒の砂を取り去っても砂山のままだが、そうやって粒を取り去っていったとき、最終的に一粒だけ残った状態でも「砂山」と言えるか、という問題である。
出典:砂山のパラドックス - Wikipedia
どこからが実在していてどこまでが実在していないといえるのでしょう。
たとえばスマートフォンで撮った写真は生のデータのままであればリアルを映しているといえるかもしれません。一方で写真をアプリで加工してネコミミを付けたとすると実在しないネコミミを付け加えるわけですからバーチャルなのかもしれません。
もしかするとスマートフォンのカメラアプリが自動で見栄えよく加工しているかもしれません。私たちは上手く調光された鮮明に見える写真を見て「リアルだ!」と思います。では、写真をじわじわと1ピクセルづつ加工して増やしてネコミミを描いていくととうなるでしょう。人間はアハ体験のようにわずかな変化がゆっくり進んでいると差異を認識しにくいものです。ついにネコミミを描き切ったとして、なおもその写真が「リアルだ!」と感じていたとしても少しも不思議ではないでしょう。
一方で私たちは変化させずに最初からネコミミを描き加えた写真を見ると「実在しない」「バーチャルだ」と感じるのです。
思うに写真にリアルだと思うのは目で見たリアルと似ているとみなした方が都合がいいからに過ぎないのです。あくまで写真と実物から受ける視覚情報が似ていることから写真をリアルの典型例とする社会的合意が暗黙のうちに出来上がっているにすぎないのではないでしょうか。
この問いは一個人の中ですらリアルもバーチャルも厳格な定義が困難であるだけに言葉遊びに過ぎない気がしてなりません。
リアルでもバーチャルでも
個人的にはこういった経験論的なお話は大好きなのですが、話をバーチャルに戻しましょう。
リアルであってもバーチャルであっても変わらないものがあるとすれば、感情だと思うのです。褒められれば嬉しい、嫌なことをされたら怒る、お別れは悲しい、誰かと遊べば楽しいのです。
だからバーチャル人格やバーチャル空間での生活を大切にすることはバーチャルという曖昧な言葉を抜きに考えれば、自分の人格や自分が居る空間での生活を大切にすることと同じだと思うのです。
幽霊に人格や生活があるかどうかなんてわかりません、けれどもバーチャルな姿をまとった人々には人格や感情があるのです。
何がリアル何がバーチャルかが人によって考え方が違っても、日々を楽しく大切に生きることの大切さは変わらないはずです。
というわけで今後ともバーチャルな活動をしていきたいなと、気持ちを新たにしました。
お読みいただきありがとうございました。
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