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結婚にまつわる言葉遣いを、考え直してみる

12月が始まった。いよいよ今年の最終月。
職業柄なのか、勝手に 無事に結ぶぞ…!と早くもドキドキしている。

伊勢に暮らしていると、毎月1日は「朔日参り」という習慣があって(伊勢神宮にご挨拶に行くもの)朝から姉が朔日参りに行って "朝粥" を食べているのを、私はいつも通り7時に起きてストーリーズを見て知る。
(ちなみに朝粥も朔日参りとセットのようにされていて、毎月季節のお粥を食べれる。なんと朝4時頃から並ぶ、早起き習慣)

めったにしないけれど、姉のストーリーズに「いいなあ」とコメントをして、なんだか楽しくなったので、今晩は実家によって夜ご飯を家族と食べることにした。
早起きが苦手な私には、これぐらいがちょうどいい習慣なのかも。


さて、そんな今日もふつふつと結婚や暮らしについて考えている。

一昨日、図書館に置いてあった 群青12月号をふと手に取り、くどうれいんさんの「スノードームの捨てかた」という短篇を読んだ。

いつもはいいなあと思い通り過ぎてしまう、窓際のソファ席に座って、好き!手にとった私ナイス!と思いながら、あっという間に読み終えて、どきどきしながら感想をメモ。

本の中に、こんな言葉があった。

結婚している私が独身の人に言う「いいなあ」と、独身の人が結婚している私に言う「いいなあ」だと、私の方が言っちゃいけない「いいなあ」な気がする。

結婚を報告した時、自分の親のようにものすごく喜んでくれること、もちろん嬉しいけれど、「正解へようこそ」みたいな祝われ方は、どこか気持ち悪くて。

とても共感できる気持ち。

結婚式をつくる仕事をしながらも、従来の結婚という仕組みにも違和感は無くならないし、日常の中でも感じる他者からの 結婚や出産などへの 無言の圧力やそれが前提とされている社会に、心に一つ一つ錘を置かれるような感覚になる。

同時に、結婚にまつわる言葉には、一人一人にとってグラデーションのある曖昧な違和感が、本当に多いはず。

小説の中にもあるように、「結婚している」
「独身」など自分のいる環境によっても考え方は変わると思うけれど、それぞれの立場で、みんなはどう思っているんだろう。

立場が違うからこそ伝えにくいこともあるだろうけど、本当はもっといつものトーンで、近くの友だちともそんな話をしてみたい。気になる。

違和感を感じる当事者として、今も仕事をしている訳なので、まずは独立していろんな資料を準備するとき申込書に「新郎・新婦」の記載を辞めた。

結婚式当日 言葉をのこす司会者さんにも、ふたりにはどんな背景があってこの日があるのか、今はどんな想いなのか、そのニュアンスを伝えることに、いつも必死。

結婚というもの自体、長い歴史があるからこそ、考える前にすでに当たり前とされていることが本当に多いのだ。


とはいえ、違和感を感じることだけが正しいのでは決してない。

苗字を変えることが嫌な人もいれば、同じ苗字になることを望み、喜ぶ人もいる。新婦と呼ばれること、新郎と呼ばれることを憧れ待ち望む人もいる。

それは大切な想いであるし、その気持ちを素直にお祝いしたい。

そして同じように、違和感を持つ人がいることも忘れてはいけないし、その曖昧な気持ちをも、素直にお祝いしたい。


こうゆう誰かの声や記事を見ると、もしかすると 私も言葉の違和感を生んでしまう側になっているんじゃないかと、いつも背筋がヒヤッとする。

そうはなりたくないからこそ、こうゆう話には敏感だし、こうしてnoteに書き連ねておくことにした。

結婚を祝う人として、みんなや世の中に根付いて被されてしまった違和感を、ひとつひとつ、ゆるめていけたら。


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