忘れられない男(ひと)
人生でたった1人だけ
忘れられない男(ひと)がいる。
彼と会ったのは、忘れもしない昨年12月13日。
笑いの殿堂、なんばグランド花月だった。
その日は私がかねてよりファンであった『ニッポンの社長』が初めてNGKで単独ライブを行う日。
元々3月に予定されていたライブだったが、コロナ禍により無期限延期が発表されていた。
しかし時を経て、よくやく開催が決定したのだった。
ずっと楽しみにしていた大好きなニッポンの社長の単独ライブに、私の心は浮き足立っていた。
名古屋から近鉄特急に乗り、大阪難波を目指す。
大阪難波駅に到着し、改札を出て駅中のファミリーマートでチケットを発券する。
さぁ、いよいよ。
難波駅構内から地上に出て、NGKまでの道中をゆっくりと歩く。
この辺りを歩くのはとても久しぶりだった。
かつてほどではないが、ミナミ特有の雰囲気はまだ残っており、観光客らしき人や飲食店のキャッチもチラホラと見つけられた。
NGKの前に着く。
昔はNGKの前に芸人さんがズラッと並び、チケット売りをする光景が見られたのだが…
そんな風に過去を懐かしみながら、時計に目をやる。
開演まではまだ時間があった。
そうだ、そういえば単独ライブのグッズがあったな。
グッズにはあまり興味がない質だが、ステッカーぐらいは買ってもいいかな…
そう思ってNGKの前を通り過ぎ、よしもとエンタメショップの方向に向かって歩き始めた。
しかし、エンタメショップの前には長蛇の列。
並んでいるのはほとんどが若い女性だった。
これはなんだろうか?EXITの限定グッズでも売っているのか?
列の後方でプラカードを持ったスーツ姿の女性を見つける。
プラカードには「ニッポンの社長単独ライブグッズ購入列」の文字があった。
なんと。
ニッポンの社長ってこんな人気あったのか。
もちろんめちゃくちゃ面白いのでお笑いファンからの支持は熱いと思っていたが、グッズを買い求めるタイプのファンがいたとは。
これは後から知ったことだが、ボケの辻さんは隠れリアコが多いらしい。
たしかに、長身でスタイルも良く、類稀なるお笑いセンスを持ってらっしゃるので、そういうファンがいるのも頷けよう。
そこに並ぶほどの気力も体力も物欲もなかったため、グッズ列を後にして裏難波の辺りを少しうろついて時間を潰した。
いよいよ開場の時間。
チケットを取り出し、エスカレーターでロビーへと上がる。
ロビーでは検温や消毒などの感染対策が行われていた。
それらを突破し、劇場のドアを開ける。
私の席は2階席の2列目だった。
着席して開演を待っていると、ふと意外なことに気づいた。
それは、男性客の多さだった。
これまでお笑いライブには何度か足を運んだことがあるが、大抵の場合は客席の9割を女性客が埋めている。
もちろん今回も女性客の方が多そうではあったが、その比率が7割ないしは6割ほどであり、普段よりも男性客が多いのは明らかであった。
男性客が多いお笑いライブ。
それだけで、より値打ちがある様に思えた。
(珍しい、という意味でだ)
しばらくすると、空席だった私の左隣の席が埋まった。
私の左隣は、男性客だった。
茶色のダッフルコートを着た、おそらく20代の黒髪の男性。
コロナ禍で人と距離をとることが当たり前になっていたせいで、この近距離に人がいるだけでもやや緊張するのに、それが男性だなんて。
自分の左半身に緩やかな緊張が走る。
よく男性は「近くに女性がいるだけでテンションが上がる」「緊張する」だなんて話をするが、口に出さないだけで女だって同じだ。
隣の席に年の近い男性が座れば緊張するし、意識してしまう。
左半身を緊張させたまま、客席が暗転になり、ライブが始まった。
オープニングコントから既に、ニッポンの社長ワールド全開のネタだった。
詳細は書けないが、全編通して血糊の使用量が多いライブだったと思う。
どのネタも、幕間VTRも全てが最高だった。
そして何より、全員「ニッポンの社長が好き」という共通点を持っている空間が、最高に心地よかった。
みんなが同じポイントで笑い、その空間を楽しんでいる。
「これのなにが面白いの?」など的外れなことを言う人間は勿論いない。
「こんなとこで笑ったらダメかな」という変な空気の読み方もしなくて良い。
こと「笑いのツボ」という観点においてのみ、一切の多様性が排除された閉ざされた空間。
最高だった。
見知らぬ誰かが自分の発言で傷つくかもしれないという恐怖やどこで誰が自分の価値観を攻撃してくるかわからない恐怖に満ちた世界の中で、唯一自分が自分らしく呼吸できる場所のように感じた。
この閉塞的な時代、コロナでより疲弊していた心が潤っていく感覚が確かにあった。
しかしそんなライブの最中、もちろんネタに集中しながらも、私は幾度となく左隣に意識を向けてしまっていた。
それは、左隣の男性が声を出して笑っているタイミングだった。
そして、私が声を出して笑っているタイミングでもあった。
勿論コントなのだから、意図的に「笑うポイント」が作られていて、そこでみんな笑っていた。
だけどなんだろう。
どうしてこんなに心地よく、嬉しいのだろう。
そもそも私とこの人は「ニッポンの社長が好き」という共通点を既に持っている。
これだけで、かなり運命的な気がした。
だって私は今まで生きてきて、「ニッポンの社長好きなんだよね」という男性に出会ったことがなかったからだ。
それはニッポンの社長の人気がないとか知名度がないとかそう言うことでは全くなくて、そもそも男性と好きなお笑い芸人の話なんてしたくても出来ないからだ。
だから私はこれまで、ニッポンの社長が好きという男性はおろか、同じ芸人さんを好きだと言う男性にすら出会えたことがなかった。
それが、こんなにいとも簡単に。
しかも千鳥さんやかまいたちさんといった全国区のスターではなく、ニッポンの社長で。
そして、同じものを見ながら、同じタイミングで笑ってる。
こんなこと、26年間の人生で一度もなかった。
異性と同じものを見ながら同じタイミングで自然に笑えるなんて、そんな、そんなことが、そんな奇跡みたいなことが。
あぁ、私、この人と付き合いたい…。
全てのネタが終了して、後説の前田龍二さん(なにわスワンキーズ)が舞台上に登場した。
(そこでも、私と隣の彼は同じタイミングで吹き出した。まさか前田龍二で一緒に笑える男の人がいるなんて。)
感染予防のために、帰りは規制退場となっていた。
私も隣の彼も、退場のアナウンスを舞台上の前田龍二を見ながら待つ。
…話しかけてもいいものなのだろうか。
私はずっと迷っていた。
ずっとずっと迷っていた。
「面白かったですね。」
「ニッポンの社長好きなんですか?」
この一言をかけてもいいのだろうか。
単独ライブの余韻に浸っているところを、逆ナンまがいのことをして(まがいというか、がっつり逆ナンだが)邪魔してしまうのではないか。
そもそもコロナ禍でナンパってあまりにも非常識じゃないか。
そもそも彼女がいるかもしれない。
それに今は前田龍二の話を聞きたいかもしれない。
そんなことを思っているうちに、私たちの座っているエリアがアナウンスされた。
私と彼は、係員の指示に従い、適切な距離を保ちながら劇場を後にするしかなかった。
もう二度と、彼には会えない。
出会ってから既に4ヶ月。
正直、もはや彼がどんな顔をしていたのかも忘れてしまっている。
もし、あのとき勇気を出して声をかけていたら、何か変わっていたのだろうか。
それとも黒歴史を生み出していただけだろうか。
だけど、今でもあの時感じた心地よさを、私はどうしても忘れられない。
もしいつか私が誰かと恋愛をして、結婚をするような日がくるのだとしたら、相手はあの彼のような、居心地の良さを感じられる相手がいい…。
これが、私の人生でたった1人の、忘れられない男の話。