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ドラマ「東京サラダボウル」から外国人に想いを馳せる
こんにちは。片頭痛とバトルしながら日本語教師の資格勉強してるカミンです。
つい最近始まったNHKの夜10時ドラマ、「東京サラダボウル」を観ました。
原作は漫画「クロサギ」の作者・黒丸先生による「東京サラダボウル」。
2021年から2024年2月までの連載だったようで、完結済みなんでしょうかね。
先に言うと、このドラマが非常に面白く興味深かった作品だったのでいつか漫画も読みたいなというところ。
異文化が同居する“サラダボウル”の大都市を舞台に、ミドリ髪の国際捜査の警察官&ワケありの通訳人のコンビが外国人居住者の方たちの暮らしや人生に光を当てながら、異国で生きる葛藤に出会っていく。
「刑事バディ」「中国語通訳者」「日本に居住する外国人との交流」「異文化コミュニケーションとその摩擦」などなど、私のハートをつかむのにはあまりにも盛りだくさんな内容。
画面にかじりつくようにして観た後、資格勉強しながら思っていた「外国人居住者との関わり方」について想いを馳せてしまいました。
「私の母国」と「彼らの異国」
タイトルの意味は「日本ってつまりそういう国なんですよね。」という私の思い。
私の常識は「日本で育まれた意識」であって、外国人居住者にとっては「異文化」であることが多い。
彼らは私のような日本人に囲まれて、例えばパートナーと暮らす、仕事をする、大学に通う……。はたまた、外国人居住者同士の間に生まれる人もいる。
そういう人々と交流する際に、どうしても埋められない「みぞ」は存在する。その「みぞ」が、相手とのすれ違いを発生したり、逆に「不思議な絆」を生むこともある。
これは下記の「ベトナム青年」と「中国人留学生」との違いに現れた。
劇中、警察官と日本語が話せないベトナム人とのやりとりがある。職質をされるもわからない、在留カードを出せと日本語で言われてもわからない、そして交番に連れられるベトナムの青年。
一方、簡単な英語をパッションで話す主人公のレタス頭な刑事と、日本に来たばかりの中国人留学生。先ほどのベトナム青年の境遇と同じではあるが、彼女には「相手に寄り添おう」という姿勢があった。たったその一つの意識だけで、結果は全く違うものに変わる。
もし日本語教師として働くことができた時、外国人居住者が私に求めることは「日本語を教えるだけ」なんだろうか?
教科書はその問いに「NO」という。
私自身も「NO」である。
「日本という『異国』で暮らすことについて」を共に考える1人として存在したい。
これが今現在の私の答えである。
自身の母国に住み、ただ趣味で世界共通語でもない日本語を学ぼうとしている生徒相手ならば、
「日本語を面白く楽しく教え、たまに学習の壁にぶつかったら打開策を考える教師」
このような教師になりたい。
しかし、日本に住む外国人が生徒になるならば、
「日本語を面白く楽しく教え、異国での生活で戸惑うことの相談相手になれる教師」
このような教師になりたい。
あまりにも夢見すぎているかもしれない、非現実的かもしれない。
特に外国人居住者については移民問題などもっと考慮すべきことも多い。(皆が皆、純真無垢に日本に来るわけではない。性善説を真っ向から信じ切る人間ではありません、自分。)
でも「情熱」は持っていていいはず。この理想に半歩でも近づくために、自分自身を育てていきたい。
自分が台湾にワーホリで住んでいた時、台湾人や日本人、ベトナム人、インドネシア人…と様々な人々に助けられた。
コロナ禍前だった当時はふんわりと「優しい人たちに恵まれたなぁ」と思っていた。
あれから7年経過し、日本語教師の勉強をしながら「東京サラダボウル」を観て、やっとはっきりと気づくことができた。
自分の母国に住みたての語学もままならない外国人を、(たとえ些細なことでも、)手助けすることがどんなに勇気ある行動だったのか。どんなにその人の心を救うのか。
………とはいえ、私は損得勘定をからっぽにできない性分である。
「仲良くなれた暁には、いつか彼らの母国に遊びに行く時、旅行ルートを考えてくれたらうれしいなぁ。それか彼らの郷土料理を一緒に食べたいなぁ。」
ずいぶんと食い意地のはった教師のたまごだなと、我ながら思う。