個人と集合的な力

ポピュリズムがなぜ肯定されるべきかといえば、国家権力の専横を阻止したり、社会を変革できるのは、名もなき人びとの集合的な力によってだけであると考えるからである。国民代表機関だとされる議会だけでは(さらには選挙だけでも)それは不可能である。しかし前ポスト『なぜ左派ポピュリズムか』で触れたように、人びとの集合的な力が右に振れる時、ファシズムを生み出すことも歴史が示している。

ファシズムとは一言でいえば、ある理想社会の実現を掲げながら、最後は人間の大量殺戮を合理化する政治体制だといえるだろう。つまり、人びとはこれが理想社会への道だと信じて進みながら、最後に到達する場所が自らの処刑場であるような悲劇的な政治運動を意味する。

一方では人びとの集合的な力がなければ眼前の国家の圧政を阻止し、さらにはラディカルな社会変革を成し遂げられないにもかかわらず、他方では同じ集合的な力が別のより圧政的なファシズムを生み出す可能性を持っているという集合力のヤヌスのような二面性を、ではどう考えるべきか。

この問題は、少し角度は異なるが「個人と共同体」の問題に置き換えることができる。個人と共同体のどちらがより根源的な力を持つのかをめぐって、アメリカ政治学では70年代以降「リバタリアニズム(自由絶対主義)vsコミュニタリアリズム(共同体主義)」として論争され、またフランスの現代思想においても「共同体論」として取り上げられてきた。どちらも問題意識は、本ポストの文脈で強引にまとめれば、「ファシズムに転落、退廃しない(あるいは個人を抹殺しない)人びとの共同体(集合体)のあり方とは何か」をめぐるものであったと言えるだろう。

共同体がファシズムに転落する可能性を持っているとすれば、最善の防御は、できるだけ共同体の権限を縮小、制約し、社会や政治の基本を個人に置くべきだとするのがリバタリアニズムである。これは近代の契約国家論の提唱者の一人ロックを始祖にもつ自由主義を純化した考え方であり、ロバート・ノジックの『アナーキー・国家・ユートピア』が代表しているだろう(すこし立ち位置が異なるがジョン・ロールズの公共善を問う『正義論』もあげるべきか)。これに対し、人間は共同体の中に生まれ、自己形成する存在であり、共同体抜きの社会構成ありえず(たとえば思考に不可欠な言語を考えてみよ、と言われる)、純粋な個人は契約国家を組み立てるために必要な「擬制」に過ぎないとするのがコミュニタリアニズムである。ロールズと論争したマイケル・ランデルたちが代表する。論争は長く続いたものの、右派ポピュリズム体現するトランプの登場によって、コミュ二タリニズムがファシズムへの防波堤を持てないのではないかという問題が浮上している。

フランスにおける「共同体論」の嚆矢は、ファシズムの嵐が吹き荒れはじめた30年代にジョルジュ・バタイユが主催した雑誌『アセファル』での主張だろう。その主張を乱暴に要約すれば、バタイユはファシズムの誘惑から身をかわしつつ、対抗するためには別の共同体が不可欠であり、それは何らかの供犠によって結ばれた神話的で秘密結社的なものだというものであった。だが神話を持ち出した時点で、バタイユらの共同体はその敵であったファシズムと紙一重となり、カルト化する運命にあった。「大地(ゲルマン民族)の神話」を高々と掲げていたのは他ならぬナチスだったのである。しかしバタイユがファシズムとの対決で個人と共同体をめぐる領域を問題にしたことは意義があり、その後、この問題領域は継承され、ブランショ、ナンシー、デリダ、フーコー、ドゥルーズなどの論客たちがさまざまな角度から共同体の希望と危険を論じることになったが、「共同体なき共同体はいかにして可能か」について、いまだに明快な答えが出されているとは言えない。

ただ、ドゥルーズ/ガタリによる人間を「情動」からとらえようとする試みは、ヒントをあたえてくれる(『千のプラとー』)。人間を動かす基底には非人称的な欲望を含む情動があり、それは絶えず流動、変化し、かつ他者の情動と連結するときに個人(個体)の生成変化が促されるという主張である。そして他者の情動との連結が起こるのは、あらかじめ予期できない「出来事」に媒介される時であるとする。生成変化とは、抽象的レベルでいえば、たとえば男性から女性に、大人から子供に、さらに人間から動物にということである。ここでは、個人と集合体の二元論は否定され、両者の間に明確な境界線は引かれない。諸個人は自己がコントロールできない情動と出来事によって他者と連結され、引き起こされた生成変化によって個体でもなく集合体でもない新たな存在にアレンジメントされるとする。そして、この新たな存在が「戦争機械」と命名され、戦争機械がラディカルな社会変革を成し遂げると仮定されるのである。

私自身は、その答えは理論的にはえられず、集合的な力が展開されている現実の闘いの中からしか見つからないという不可知論に立っていて、上記のドゥルーズ/ガタリの立場に近い。というのは、彼らの用語を使えば予期できない「出来事」によってしかファシズムに対抗する集合的な力が形成されないと考えるからである。このことは、かってマルクス主義がそうであったようにアプリオリに「かくあるべし」と主張することで自己成就的予言に陥り、個人を抑圧する結果になるのを回避することも意味する。また「出来事」の予測不可能性は、一方では闘いの困難さを増すが、他方では闘いに自由を与えてもくれる。付け加えれば、不可知論といっても、もちろん歴史に学び、教訓を引き出すことが必要であるのは言うまでもない。

考えてみれば、個人と集合体のどちらも社会運動で不可欠の要素であり、両輪であることは誰しも否定できない。というよりも、およそ私たちの存在のあり方がそうであり、それ以外のあり方はなく、両者は強度の違いはあれ、なんらかの程度で連結されているのだと言うべきだろう。従って、どちらかに絶対的優位を与える考え方は誤りである(典型が右翼の国家主義や、教祖を戴く宗教カルトなど)。だとすれば、この二つの車輪が動いていく中で、個人からその力を奪わず、逆に引き出しながら、かつ集合体の力も阻害しない方法を集合的な知恵としてプラグマティックに獲得していくしかないだろう。過去の経験から引き出される幾つかの知恵については後日、書いておきたい。



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