ラヴクラフトの怪物たち

前ポストで、ドゥルーズ/ガタリによりながら、出来事による他者との遭遇で人が生成変化していくことについて触れたが、その意味について昨年書いたメモをポストしておきたい。

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ラヴクラフトの名を知ってからずいぶん時間がたっているが、実際に読んだことはない。たまたま先日、NHKBSで佐野史郎が狂言回しを務める彼の特集番組があり、興味深く、刺激的だった。刺激的とは、ラヴクラフトの想像力と、私たちがこれまで考えてきたことの多くが重なっていると思えたからである。以下、それが何かをメモとして書き留めておきたいが、彼の作品を読まずに、あくまで上記の番組からの情報にもとづく直感だけを記したものであることを断っておきたい。読まないで作品を語るのは本来避けるべきことだが、それでもあえて記すのは、それだけ彼の想像力が刺激的だったからである。

ラヴクラフトの怪物が地球の外部である宇宙由来の太古の存在でありながら、日常空間に潜み、突然出現し、人間を脅かすという基本的枠組は、ラヴクラフトが怪物の出現を、人間世界にとって、垂直的な突然の出来事として、奇跡として構想していたことを意味している。

だがこのことは、怪物と人間が接続されていることを示すものだ。宇宙と地球は、外部と内部、異世界と人間世界として形式的に区別されているが、実は、相互に連結されている。外部が内部に出現し、人間世界が異世界に引き込まれるとというのは、そこには見えない回路、あるいは反転のメカニズムがあるからだ。

この接続は、ラヴクラフトの晩年の作『インスマスを覆う影』では、人間が怪物に生成変化する地点にまで進むことになる。怪物になることは人間にとって悲劇である。だが、ラヴクラフトは悲劇に見舞われた人間が安らぎを覚えたと書く。

ここで重要なのは、『インスマスを覆う影』における主人公の怪物への生成変化が、怪物の因子がそもそも主人公に内在していたからだというラヴクラフトの設定である。つまり逆に言えば、異世界に住まう怪物はそもそも人間が生成変化した存在だったということであり、だからこそ怪物になることは人間が母なる原型に回帰することになる。怪物が本来のあり方なのだ。

ラヴクラフトの怪物のイメージは、国家が成立の当初から排除してきたものが、名を奪われ身体だけの存在である強制収用所の「剥き出しの生」として(アガンベン)、あるいは幽霊として(デリダ)、またゾンビとして(「ゾンビ革命的」)必ず回帰し、国家を脅かすという私たちの見立てとぴったり重なっている。

怪物は、人間世界から排除され異世界に追いやられてきた人間が生成変化したものであり、ラヴクラフトの怪物イメージを具象化した画家たちが描く怪物は、単体ではなく、個体が重なり、連結し、変形し、異形なものの集合体になっている。これは「人間の群れ」と呼ぶこともできるだろう。とすると、怪物とはドゥルーズ/ガタリの「戦争機械」そのものに見える。ならば、人間が怪物に生成変化するとは、人間の群れが「戦争機械」に転化することを意味する。

もし怪物が人間の群れだとすれば、ではその群れは何者だったのか。若い頃からラヴクラフトの愛読者であった佐野史郎は番組の中で、「ラヴクラフトはある種の劣等感に苛まれていたのではないか。アメリカ人として背負わざるをえない原罪ようなもの」と述べていた。佐野ははっきり名指しはしなかったが、聞く者は、それがアメリカ原住民であるインディアンたち、さらに黒人奴隷たちを意味することをただちに想起したはずである。彼らこそ、アメリカ建国の過程で国家から排除され、殺戮され、特定の場所や区域に囲い込まれた者たちである。アメリカの大地は彼らの血が染み込んでいるのであり、そこにこそ彼らを原型とする怪物たちが潜んでいるはずなのだ。

だとすれば、怪物たちが人間を襲うのは、復讐ということになるだろう。怪物と遭遇したときに人間が感じる恐怖とは、復讐される恐怖である。

怪物の出現から始まり、人間の怪物化にいたるラヴクラフトの世界は、一貫して恐怖の感情によって覆われており、そこには希望はない。それはなぜなのかという問いが立てられるとすれば、人間はまだ怪物たちに対する血債を背負ったままであり、その債務を履行していないからだ。

もう一つの直感がある。「失われた古代都市」のイメージである。彼の作品で多用される太古の文明の痕跡としての「失われた古代都市」は、そこに迷いこんだ人間が偶然発見するのだが、怪物の祖先たちが築いた文明が崩壊したことを象徴するものである。だがこの「失われた古代都市」は明らかにそれ以上の含みを持っているように思われる。

それは、人間世界もまたいずれは同じように崩壊するだろうという作家の黙示録的な予感が投影されたものではなかったか。人間世界もいったんは全面的な滅びを通過することになるだろうという予感である。

ラヴクラフトが世を去ったのは1937年であるが、言うまでもなく、ナチスとコミュニズムが国家権力を掌握し、人間を大量に殺戮していた時代であり、ラヴクラフトが全体主義国家の登場と破滅を予感し、破滅後の廃墟を「失われた古代都市」としてイメージしていたとしても不思議ではない。

だとするとラヴクラフトの世界とは、文明の滅亡後の世界とも言える。彼が本質的に解こうとしていたのは、文明の滅亡が避けられないとすれば、その後に世界はどう再生されうるのかという問いだったのではないか。言い換えれば、人間は怪物にならなければ滅亡を生き延びることはできず、世界の再生はただ新生人間=怪物の手によってのみ可能なのか、と。

2019年9月20日

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