大西つねき氏擁護論を批判する

一昨日の16日、れいわ新選組は(党員)総会を開いて、大西つねき氏のyoutube動画での発言について、党としてとうてい許容できるものではないとして「除籍」処分を決定した。総会後の記者会見で代表山本太郎氏は、「決定の採決結果は、対象者である大西氏をのぞく出席党員16名のうち、除籍賛成が14名(うち委任1名)、反対が2名だった。反対の2名も大西発言は処分に相当するが、除籍には反対であり、一定期間の党員資格停止などの提案があった」(筆者注:投票数については、全党員が現在18名であり、大西氏を除けば本来17名のはずであるが、1名は委任せずに欠席したことになる)と発表した。

この決定に対し、SNS上では、賛否が分かれた。除籍処分は当然だとする声が多数だったと思われるが、処分反対の声も相当数あり、無視できるほどの少数意見とは言えない。

そこでいささか気が重いが、除籍賛成の立場から、(筆者が知りえた範囲になるが)反対意見の主なものを取り上げ、批判したいと思う。

問題とされた発言は一部分の切り取りであり、発言全体から判断すれば、大西氏が優生思想の持ち主ではないと分かるはずだ

根本的には、たとえ問題発言が切り取られた一部分であったとしても「生命の選別」を肯定するものであり、言及されている高齢者のみならず、障がい者など社会的弱者に恐怖を与え、同時に「選別」に賛同する声を拡散させる危険な作用をもたらすがゆえに許されないと考えるべきである。さらに、問題発言が全体の文脈と著しくかけ離れ、矛盾している場合ならこの批判もあり得るが、当該部分は大西発言の全体と矛盾しているわけではない。youtube動画の全体のトーンは「高齢者介護に従事する若者の時間と労力を過度に割くことは、超高齢化社会における限られた労働力のリソース配分として好ましくない。その配分のラインは最終的には国家、政治の仕事として決めるべきだ」であり、社会的効率の名の下に、国家が生命の期限を限ってもよいとするものである。したがって全体もまた優生思想に彩られたものと捉えるべきである。

たしかに問題とされた発言は批判すべきだが、それは優生思想ではない

優生思想とは、一般に、国家が劣勢な遺伝子の拡散をその保有者を隔離や断種(さらには殺害する)などの方法で抑制し、社会全体に優秀な遺伝子の保有者のみを残し、そのことを通じて国家や民族の強化を図ろうとする考え方をさす。20世紀初頭に欧米に広がった思想であるが、ナチスがこの思想に基づきユダヤ人や心身障がい者を大量に殺戮したこと、またこの思想の前提とされていた遺伝子プールと人為的操作、選別という概念も科学的根拠を欠くとされ、戦後は衰退している。しかし現在でも潜伏しており、排外的なナショナリズムが生み出す人種主義(たとえば白人第一主義)でその根拠として持ち出されている。確かに大西氏の問題発言は直接的に劣勢遺伝子の排除を取り上げたものではなく、高齢者を対象としたものである。しかし、大西発言のポイントは、労働力を社会的リソースとしてとらえ、国家としてその効率的配分(その対象に高齢者があげられる)をおこなうべきだという点にある。だとすれば、効率的配分の対象になるのは別に高齢者だけでなく、ホームレスなどの貧困者、さらには障がい者など社会的弱者と呼ぶべき人びとに拡張されうるし、それは結果として国家が「誰が、どれだけのケアを受けるべきか、またどの段階でケアレスに放置すべきか」を決める、つまり優生思想の狙いである「生命の選別」を肯定することにつながるのである。したがってこの擁護論は成り立たない。

問題発言がたとえ優生思想で批判する声があっても、大西氏には思想の自由、表現の自由が認められるべきで、発言そのものを処分対象にするのは不当だ

思想の自由、表現の自由を最大限尊重すべきなのは当然である。しかし、その自由は、他者の人権を侵害しない限りで認められるものだ。「国家は生命の選別を行うべきだ」という思想は、選別の対象となる人びとの生命を脅かすものである以上、思想の自由の範囲を超えるものであり、保証の対象外だというべきである。民族差別を煽るヘイトスピーチが、当該民族に属する人たちの生命と自由を侵害する危険性をはらむために法的に禁止されるのと同様である。20世紀の戦争とファシズムの経験から、優生思想や人種差別、民族差別がマイノリティーの迫害やジェノサイドの誘因として法的に禁止すべきだとされるのは既に国際人権規約、条約などによって国際的な合意として成立している。したがってこの擁護論も認められない。

「誰でも不安を抱えず暮らせる権利がある」というれいわの立党精神を持ち出して大西発言を批判するなら、同じ立党精神の中の「何度でもやり直せる社会を構築する」という部分に立てば、大西氏を除籍し、切り捨てるのは矛盾している

れいわ新選組の規約にはこれまで党の綱領(「決意」)に違反した場合の処分とその手続きが存在せず、今回、大西氏処分の正当性を確保するため急遽総会で規約を追加した経緯がある。その意味では、党としてきわめて不十分な組織運営と言わざるをえないし、大西処分の正当性には疑問が残る。しかし、一般的には、政党では綱領に賛同した者が党員として認められるのであり、大西発言が「あなたが明日の生活を心配せず、人間の尊厳を失わず、胸を張って人生を歩めるよう全力を尽くす」、「中卒、高卒、非正規や無職、障害や難病を抱えていても、将来に不安を抱えることなく暮らせる社会を作る」ことを掲げる綱領(「決意」)に違反している(それどころか180度真逆である)ことは明らかだろう。また大西発言はたんに党の綱領に反しているだけではない。上に述べたようにそれを優生思想として捉えるべきであるとすれば、およそ国際的な合意をベースとすべき公党(の党員の発言)として許されないのであり、したがって社会全体の問題になる。大西氏の処分が「何度でもやり直せる社会」と矛盾するという批判に対しては、今の述べた理由から党として明確な処分を行うことが必要不可欠であり、矛盾するものではないと言うべきである。また、処分後に大西氏が「やり直せる」ために、れいわから氏にさまざまな機会を通じて、優生思想の反省を促すのはありえるが、しかし氏が離党している場合には、それはあくまで大西氏の意思に関わることで、党として強制すべきものではない。

大西発言も広い意味では党員間の意見の違いというべきで、違うからといって事実上代表の決定で除籍を決めるのでは党に民主主義は存在していない

大西氏がある問題に対して意見を持つことは当然だし、それを党の内外で発表する自由も認められるべきであるのは言うまでもない。他の党員と違うからといって禁止する道理はない。しかしその意見を発表することが、他者の人権を侵害し、さらに党の綱領に反する場合には党から何らかの処分を受けたり、党員として禁止されることはありうることである。政党であろうとなかろうと、およそ民主主義とは何を発言してもいいというものではなく、一定の制約を受けるものだ。

ある党員が、党内の議論の前に、ツイッターなどで大西発言を批判したのは手続き無視で、行き過ぎだ

youtube動画における大西発言をツイッター上で批判した党員は、大西発言が優生思想であり、許されないと考えたからだが、次の点で止むをえないものだったと考える。一つは問題発言を討議する党内手続きがれいわ新選組に明確なかたちで存在していなかったため、(ベストとは言えないとしても)SNSの利用を選択せざるをえなかった考えられること、もう一つは、大西氏の発言が優生思想として危険性がある以上、その拡散を止めるため緊急にパブリックなプラットフォームで注意を喚起する必要があると判断したと考えられることである。法律でいえば、手続き的には違法性があったとしてもそれによって救おうとした利益が大きい場合には、緊急行為として違法性が阻却されるケースにあたるだろう。このことは、大西発言は、党員であろうとなかろうと、誰かが批判し、注意を喚起すべき社会的問題であったことを意味している。実際、その後、SNS上で党外の多くの人びとが大西発言を批判した。したがって誰が最初に批判したかは本質的な問題にはならない。

大西批判は、れいわ新選組の分裂をたくらむ勢力によるものであり、それに乗せられるべきではない

これは批判すべきレベルものではない単なる陰謀論であり、もしそうなら、その証拠を示して発言すべきである。









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