れいわ組織論の難題ー陰謀論、立憲との対立への対処
先月24日、再開した全国行脚先である鳥取の地で開催した「おしゃべり会」で山本太郎は、「れいわとして地方組織は作らないのか?」というメディアの質問に対し、次のように答えている(要約。リンクは下に)
いまのところ地方組織をつくるつもりはないんです。これまでと同じような中央からの指令で地方が動くんじゃなく、地方それぞれが工夫とアイデアで独自に動く。これ、敵にすれば誰がどんな動きをするか予測できないわけで、一番嫌がる形じゃないかと思うんですよ
この発言は、これまでれいわの組織論として(推測を含め)あちこちで取り上げられきたことに山本自身が明快に答えたものである。つまり、note上で、安冨氏が研究猫とも氏の問題提起に応答する形で指摘していたように、れいわ発足当初からの「中心も境界もない、(カオス的な)因果縁起の広がりゆく網の目」のような組織展開は、自然発生的にそうなったというわけではなく、それなりに意識的、戦略的なものだったということである。
私自身はこのような組織論を基本的に支持したいと思ってきたし、現在も変わらない。しかし特有の弱さを持っていることも確かであり、中でも重大なのは、既に研究猫とも氏が指摘したように、本来主人公であるはずの支持者が運動に参画する回路が存在しない結果、リーダーである山本氏の独裁的ポジションが(その意図に反して)かえって強化されてしまうという懸念だろう。
しかしそれに加え、この中心なきカオス的組織論が持つもう一つの弱点が浮上してきている。それは、たとえば「不正選挙陰謀」から「地震兵器陰謀」など、あれこれの(オ)カルト的陰謀論者の流入とその活動の活発化をこの組織論で抑制できるのかという問題である。これはかねてから懸念されてきたことでもあり特段新しい問題ではないし、実際安冨氏も先月22日、ツイッター上で、「以下の項目に○か×かつけてください」となかば挑発的なアンケートを行っている。その時の質問は以下の通り。
・れいわ新選組はいいと思う
・日本の世論調査はインチキである
・日本の選挙は票数が操作されている
・東日本大震災は、人為的に起こされた
・国際陰謀組織は実在する
このアンケートをめぐって氏は、大要次のように結論づけている。「確かに陰謀論に惹かれている支持者は多いと思うが、陰謀論はケシカランと非難して排除することよりも、包摂してその非科学性を合理的神秘主義に導くほうがよりましな対処だろう」と。
はたして安冨氏の対応は妥当か。陰謀論がレイシズム、排外主義と親近性があり、さまざまな変種を持つ「ユダヤ陰謀論」が当初からナチスの強力なドライブになっていた歴史を振り返れば、「いや絶対に許すべきではない」という見解もありえるし、私も基本的にそう考える。しかし、上にあげたようなれいわのカオス的組織論では、支持者が運動に出入りするのは自由であり、かつみずからのイニシアティブで活動するこを奨励されているのだから、もし陰謀論は許されないとするなら、活動参加にあたって支持者に踏み絵を踏んでもらうしかなくなる。しかし、これは政党が党員に綱領や規約の同意を求めることと次元を異にするものであり、憲法上「内心の自由」で保障された個人の信念を検閲することに等しく許されないだろう。
つまり陰謀論への対処は、あくまでそれが外部に表現された段階で、指摘し、批判する事後的な方法しかない。そしてそれが実効性を持つためには、支持者の中で、「陰謀論は許されない」という規範が共有されていくことによるしかないだろう。この規範形成は支持者に粘り強い努力を要求するし、時間がかかるのは言うまでもない。
もう一つ、陰謀論者への対処と重なる問題だが、先日の京都市長選をめぐって生起したれいわ支持者と立憲支持者の対立の激化をどう考えるかがある。選挙現場での対立は、れいわの福山候補応援のためのトラックの意匠について立憲支持者がケチをつけたことが契機となった。たしかにれいわ支持者がやりすぎの面があったことは否めず、その後、意匠は自主的に変えられたが、れいわ支持者にすれば、「そんなクレームより、立憲が自公候補である門川を支援していることが問題だろう」と反論したかっただろう。対立はツイッター上で、それぞれの支持者が罵倒しあうところまで激化した。私もれいわ支持の立場から、ほとんど「れいわ=敵」論まで踏み込んだようなカルト的な立憲支持者を批判した。
この京都市長選をめぐるれいわと立憲の対立は、次期衆院選を控え、現状のまま野党共闘が成立しなければ、さらに激化する可能性がある。はたしてれいわは、党として、この対立を調整できるだろうか。望ましいのは支持者に対し、たとえ対立しても政党間で守るべきルールがあり、やってはいけない言動があることを明確なメッセージとして出すことだろう。これも、れいわの組織論からいえば、党員ではなく支持者に対してであるから拘束力は弱く、どれだけ効果があるか疑問が残る。やらないよりはやったほうがいいというレベルにとどまるかも知れない。
結論的にいえば、れいわの組織論では陰謀論、党派対立とも歯がゆい対応しかできず、迅速適切に対処するのが難しいということになる。それでもなお支持者が主人公として振る舞うのを抑圧する中央集権的、パターナル的な組織運営よりもはるかに利益が大きいと考えるしかない。だが、そう言えるためには、れいわも支持者も、カオス的組織論に対応する新しい活動方法を活動を通して集合知として編み出していく必要があるだろう。