柄谷行人『世界共和国』について -否定神学的に
概念とか観念は人間を含む世界の一部を構成しているのは確かだが、決して現実の総体をとらえることはできない。こういう立場から、ある概念や観念を考えるとき、その論理に矛盾する事実を提示したり、あるいはそれが誤っている可能性を指摘し、その基盤を揺るがすことで検討することしかできないだろう。「そうではない」また「そうでない可能性がある」と主張することである観念(理論)を批判する方法は一般に「否定神学」と呼ばれるが、ここでもこの方法を取ることになる。
2006年に発刊されたこの著作を全面的に理解し、批評する力は残念ながら今の私にはない。それでも幾つか感じたことは書留めておきたい。柄谷はこの著作をより敷衍したものとして、2010年に『世界史の構造』を出していて、これにも一応眼は通している。本来なら併せて検討すべきであるが、力に余るのでここでは『世界共和国』のコメントに限定したい。(だが両書で基本的な主張は変わっていないと思われる)
この著作の目的は、現在世界を覆いつくそうとしている資本主義経済がもたらす結果(柄谷は最後の方で、それを世界規模での戦争、環境破壊、経済的格差と要約している)を回避し、国家の壁を超えてそれに代わる新しい社会の在りかたと構造を提起することに置かれている。
柄谷は、これまでの人類の歴史を、一般的なマルクス主義がそうであるように生産のあり方ではなく、交換のあり方からとらえるという視点で、四つの交換カテゴリー、「贈与と返礼」、「略取と再分配」、「貨幣と商品」、「X」に分類する。そしてそれぞれのカテゴリーに対応する社会(構成体)を、順に「氏族社会」、「アジア的、古典古代的、封建的社会」、「資本主義社会」だとする。
では謎の社会Xとは何か。柄谷はこれを「かっては、失われた互報的な共同体を補完する宗教が担っていた想像的=理念的なものであり、過去千年王国的な運動としての試みもあったが、まだ地上に実現されていない社会」だとする。その上で、「いまだ想像的なものであっても、資本主義経済を乗り越えて実現すべき社会はXである」と主張することに意義があるという。
では、Xの社会をどう実現するかであるが、その前提として「「貨幣と商品」が支配する現代社会は、資本=ネーション(国民)=国家が一体的な環となっており、資本主義経済を廃絶するためには、ネーションも国家も同時に超えなければならない」という認識に立つ。ここでのポイントは、二つあり、一つは国家の独自性であり、たとえ一国内で資本主義経済を廃絶しても、国家の根拠は他の国家の存在にあるので、そのままでは国家は残るという見方である。二つ目は、ネーション=国民である。これは資本主義が支配的になり、近代国家が成立したときに同時に形成された「想像的な共同体」であるとされ、幻想ではあるが、共同体の回復は人びとのこころに根強くあり、危機におけるその発動形態であるナショナリズムもただ否定すべきではないとされる。
以上がざっくりした前提の要約であるが、これらの見解がはたして妥当なものどうかただちに判断できない。たとえば社会構成体の歴史的変化について、柄谷はポランニーやウイットフォーゲル、近年の論客としてアミンやウォーラーステイン、さらにはネグリ=ハートなどの理論を批判的に織り込んでいるがそれぞれについて不案内であり、彼らの理論の妥当性を判断できない。もっと言えば、全否定するわけではないが、私自身はそもそも社会科学や経済学そのものの妥当性について疑問を持っている。
そこで、ではXの社会を実際に実現していくためにどうするかという柄谷の結論部分だけにコメントしたい。だが結論はあっさり、あっけなく提起されている。まとめると以下である。
[A] 資本主義に代わる新しい社会:プルードン的な生産者協同組合(アソシエーションと呼ばれている)の自由な連合
[B] 国家の乗りこえ方:国家が主権を(国連的な)国際組織に譲渡するよう下から圧力をかける
[C] めざすべき新しい国際社会:かってカントが提起した「世界共和国」
大方の読者は、「えー、なに、そんな結論なの?」とドン引きするのではないだろうか。
まずキモである[A]の「生産者協同組合」がまったく具体性に欠けている。農漁業、工業、商業、金融業、情報産業などで構成され、市場と貨幣で国内と海外が結びつけられている現代の資本主義社会をどう「生産者協同組合」に編成しなおすのか、本著作でその青写真はまったく提起されていない。
たしかに協同組合では経営と労働の分離が存在せず、労働者の搾取=剰余価値は生まれないであろうが、他の協同組合との交換手段が何であり、何を基準におこなうのか、また何を生産すべきかは市場が存在しないとすれば、いったいどういう指標で決めるのか、海外との交換手段は何か。柄谷はラッサールなどの上からの、つまり国家が支援する「協同組合」は国家の強化に繋がるだけだと否定し、あくまでプルードンの主張したような「自由な連合」としての協同組合だなければならないとする。しかし、国家でなくても、個々の協同組合とは別にどこかで社会全体の調整をおこなう必要がある。だとすれば官僚制や市場的機能は不可避になるだろう。
もっとも柄谷もどこかで「国家は否定しても官僚制は残る。それをどう使いこなすかが課題だ」と考えているそうである。だがそれが「自由な連合」と両立するのかどうか疑問だし、使いこなすのが課題であるとは、現在の民主党他の野党だってそう考えているだろう。
一般的にいえば、全世界がある日を境に一挙に協同組合社会にならない限り、市場競争にさらされている企業相手に一国内につまりローカルに存在する協同組合がたとえある程度の連合体を組織したとしても太刀打ちできるとはとうてい思えない。また資本主義世界市場が一挙に消滅することも考えられない。これに対し柄谷は、これはカントのいう理想を描いた「統整的理念」だからそれでもいいのだと反論するのであろうか。
ところで柄谷自身、2000年に入ってからNAMという生産者協同組合運動や地域通貨Qを展開したことは知られている。が、わずか3年足らずで解散している。この運動の内情についてはつまびらかにはしないが、なぜ躓いたかはたしてきちんと総括されているのだろうか。
[B]についても柄谷的には「統整的理念」としてそうあるべきなのだから、「その可能性がいかに低く見えてもいい」ということになりそうである。彼がそう考えるのは、かって主張していた資本=ネーション=国家を超える方法として観念されていた「世界同時革命は起こりえない」と判断を変えたからだと思われるが、それを言うなら、それぞれの国家が主権を国連に譲渡することも「起こりえない」と言えなくもない程度に困難なことだろう。
[C]は、カントの「統整的理念」そのものであり、そのリアリティはコメントしようがないものだ。
結論的にいえば、柄谷の提起はやはりひとつの「大きな物語」だと言わざるをえない。社会主義運動の挫折に対して柄谷は本書でも「ポストモダン哲学派はそれをあざ笑うだけのシニシズムに陥っている」と批判しているが、スターリン主義だけにとどまらず、毛沢東主義であれ、ポルポト主義であれ、あるいはチトー主義であれ、マルクス主義が権力を握ったところではどこでも大量殺戮と収容所が生まれたことを、ただ「国家の独自性の認識が甘かった」という点だけでは到底批判できないだろう。かってアドルノが語ったように「理性そのものに野蛮が内在している」という苦い認識に立って、最初から理性やそれが紡ぎ出す理念に対する警戒を持たない限り、反資本主義のたたかいも野蛮を再生産せざるをえない。
この限りで私たちは、「革命の物語派」よりも(物語はかならず党派を生むだろう)、たとえ理念や未来の見取り図を持っていないとしても「今、ここ」でたたかいに参画する無名の民衆のままでありたいと思う
最後に補足的に二つの疑問をあげておく。いずれ踏み込んで考えたいが、ここでは問題提起だけにとどめる。
一つは、「国内で資本主義経済を廃絶できても、他の国家が存在する限り、国家は残る」という国家の独自性の主張(生産協同組合と並ぶ柄谷理論のもう一つのキモ)対する疑問である。これは、いかにもプラグマティックな論理立てであり、国家と共同体や政府との関係があいまいなままである。柄谷はしばしば「国家を内部からみれば政府にみえるが、政府=国家ではない」と指摘する。あたかも政府と国家は別であるかのように。しかし政府と呼ばれる何らかの機関(それが間接民主主義で構成されるのか、より直接民主主義を組み込んだかたちで構成されるかは別にして)が国家を運営するのであり、政府が国家と無関係ではありえない。そうであるなら、政府=国家とすることで矛盾が生じることはない。ただその政府が国家的機能を縮減する目的をもっているとしても、そしてその程度がどれだけ深化しようと、他の国家が存続している限り、彼らからみれば主権国家でしかありえないのも確かであり、この限りで、その政府が国家主権を第三者に譲渡しない限り国家は消滅しないだろう。しかし、上にも指摘したが、主権の譲渡が世界のすべての国家で同時に起らない限り、これは不可能であり、だとすれば国家は存続せざるをえない。そして国家がただちに消滅することはないとすれば、大帝国による戦争に巻き込まれることや、ファシズムに傾斜していくことを阻止する必要が生まれ、それをリアルに果たすためには過渡的にせよ、同じような立場をとる他の国家と連合して、大帝国に対峙していくしか道は残されていないだろう。
もう一つは、生産現場でのたたかいに対する柄谷のペシミズムである。彼によれば「生産現場では労働者は資本に従属していて反乱は期待できない。だが消費過程は資本がコントロールできない領域であり、かつそこを通過しない限り(つまり労働者が消費者でもあるという循環が実現されない限り)剰余価値を獲得できないという意味で資本の弱点であり、消費者としての反乱にこそ希望がある」ということになる。では消費者としての反乱とは何かという自問に対して、この著作ではただ一言で「ボイコット」と答えるだけである。しかし、ボイコットをたたかいの手段として評価するなら、生産現場での労働力販売の一時的拒否である「ストライキ」も武器になりえるし、この武器は現代でも別に無効になってしまっているわけではない。実際、より拡大した「ゼネラルストライキ」は国家財政が破綻しつつあるギリシャやスペインなどヨーロッパ諸国で組織されている。生産現場でのたたかいが困難であることは確かであり、先進工業国家の労働組合がほぼ企業内化され、むしろたたかいに対して抑圧的役割を果たしていることも否定できない。しかし、絶望的かといえばそうではないだろう。企業内のたたかいが、消費過程を含んだその外へ拡大していくときに生産現場でのたたかいも重要な役割を果すことになるだろう。だからペシミズムを超えて「内部告発も、ボイコットも、ストライキもたたかいの武器として活用すうr」というのが私たちの実践的な呼びかけになるべきだろう。